2020年8月 3日 (月)

大学は後期も対面授業をしないで大丈夫か?

 

 

コロナ禍の第2波は、経済社会に更なるインパクトを及ぼしており、首都圏の大規模大学は後期もオンライン授業を継続せざるを得ないと判断するところが多くなっている。直近の新規感染者数が急増したために、対面授業を可能な限り実施しようかと考えていた大学も、オンラインを原則とする方向に再度転換している。文科省は、こうした判断に介入することはないと思うが、かりに、後期も現状維持が続くとすれば、次に述べるような影響が負の遺産として長く社会に残っていくので、見過ごしにできないと考える。

 

 

 

 

 

1に、学生の学習面への影響である。実施されているオンライン授業の学習効果に関して、学生自身の学習能力が高い大学は大きな問題にならないだろうが、個々の大学からデータに基づく質保証の実態が明らかにされていないため、極めて疑わしいと感じている。これに関する説明責任は個々の大学が負うべきである。オンライン授業自体の可能性については、否定的に見るべきではないが、現在行われている授業については、準備期間も短く、教員のスキルはピンキリで、単に間に合わせた程度のものに過ぎない。著作権をはじめとするコンプライアンスについても、きちんとチェックされていない。授業料に対する学習保証という意味では、機関としての大学が責任を持ちうるのか、極めて疑問である。この点について、私学助成を受けている大学は、実施状況、分析結果・データを積極的に公表してもらいたい。その際、授業料のコストパフォーマンスがどの程度下がったのかも、分析してほしい。アメリカの主要大学では、学生からの声に押されて、10%程度の学納金返還が行われつつある。我が国でも、オンライン授業への対応を支援するなどの理由で、一定額を学生(保護者)に支給した大学があるが、対価としての授業料をどの程度下げるべきなのかどうか、学問の府として、きちんと論理的に説明すべきであろう。

 

 

2に、学生のメンタル面への影響である。特に、1年次の学生は、通常ならば、既に仲間もできて学生生活を楽しむフェーズに入っているはずだが、大学に入構する機会もほとんどなく、サークル活動も実質的に停止した状態で、図書館その他の大学施設さえも利用できないので、学生は一種の社会的孤立状態を余儀なくされている。例年なら、地方から上京して東京にも慣れてきたころだが、故郷に戻っている学生も多い。後期もその状態が続くなら、大学生になったという実感を持てないまま、1年間が過ぎてしまう。実際、子供がうつ状態になっているという訴えもあり、コロナ感染予防措置がメンタルヘルスに障害を生じさせているのである。こうした状況には、健康管理の担当部署で適切に対応すべきだが、学生が大学キャンパスに来ていないので十分把握できていないのではないか?

 

 

3に、学生及び保護者の経済面である。学納金の納付に支障が出てきた学生は、大学を通じて文科省の支援への申請を行っているが、その状況に鑑みれば、例年の倍以上の学生に支援が必要となっているものと思われる。保護者の収入の減少のみならず、学生自身のアルバイト収入の道も狭くなっており、公的支援が受けられなければ、年度内に退学・除籍になる者が相当増えることは間違いない。設置者である学校法人として給付型の奨学金を独自に設けて、一時的な苦境を凌ぐ手助けをするケースもある。ただ、次年度以降の就職活動に関しては、悲観的な見方が多く、学業を終えても想定している収入が得られる職に就けるかは不透明である。大学院への進学、特に博士課程への進学は、経済的な観点から、ますますブレーキがかかりそうである。就職難に直面して、進学の形で逃げる人はいるだろうが、行く意味のない大学院は企業等からも評価されるはずがない。私学では、大学院の定員充足はますます厳しくなるだろう。コロナ禍によって、経済格差が、教育格差を生み、世代を超えて、格差が固定化してしまうことは、何としても避けなければならない。

 

 

4に、次年度以降の大学(学部)の志願者への影響である。オープンキャンパスもバーチャルになり、高校生たちが大学を選択する重要な機会が失われている。保護者の経済的状況の変化もあり、潜在的な志願者は減少すること必至であろう。首都圏の大規模大学としては、おそらく、一般入試の実施前に例年より多い7割程度の学生を囲い込む作戦に出るのではないか?法定された国の方針を踏まえて、大学が入学者の定員超過を一定の枠に調整するために、3月下旬の段階でも、追加合格が出されて進学先を変更する者が、中堅大学では数%以上いる。当てにしていた志願者に逃げられて、慌てて追加合格を出して帳尻合わせに走るのだが、人気のない学部では想定枠に達しないケースもある。大学にとっては、失敗=収入減である。経済的に支障がない学生にとっては、大学がますます入りやすくなっていく。ただし、大学のオンライン授業の質に関しては、よくよくチェックした方がよい。コロナ禍は次年度も収束していないかもしれない。また、大学教員の教育力は、オンライン授業に端的に表れているからである。

 

 

5に、大学という業界への長期的影響である。我が国は、大学進学が主として家計負担により支えられている構造なので、家計所得が増えない状況が続けば、子供の数が減少していくこととも合わせて、大学進学者数は長期的に減少傾向となる。国際競争力のある大学がこれから増えない限り、業界全体は縮小せざるを得ない。また、外国の大学との競争も、オンライン教育という手段の発達により、一層激化する。トップレベルの優秀な学生が東大・京大を捨てて海外を目指すという動きが出ているが、そうした傾向が当たり前になるかもしれない。また、どこでも学習ができるようになれば、首都圏の大規模大学が保有している固定資産に、意味がなくなる時代が来るだろう。大学という教育サービス機関は、歴史的モデルチェンジに取り組まなければ、21世紀の半ばには消滅していくという危機感が、その経営者たちに、どれほどあるだろうか?

 

 

以上のように、漫然と間に合わせのオンライン授業と称するものを続けることで、大学は自らの墓穴を掘ることになると考えている。都内の高校も、種々の工夫をしながら、通常形態の授業を実施している。例えば利用座席数を半分にするなどの感染予防措置を講じつつ、全面的に対面授業を実施するだけの収容力は大学にないが、感染リスク(及び回復)を織り込んで、可能な限り対面授業を増やして、学生にキャンパスで活動をする機会を与えることが、大学の価値を高める道である。また、図書館の利用やサークル活動が自由に行えるようにできないのであれば、授業料の一部返金は必須であろう。真っ当な業界なら、対価とサービスは、釣り合わなければならない。今後、大学設置基準の規制緩和により、より低廉な授業料でより効果的な学習機会を提供する新型の大学が現れることが望ましい。コロナ禍によるリスクを正確に理解し、大学の日常を学生本意に整え直す経営が求められている。新規感染者数の数字に振り回されて、効果の薄いオンライン授業と称するものを提供するだけなら、教員ごと総退場してもらっても、我が国社会が失うものはない。我が国には大学が多すぎるわけではないが、その名に値しない大学は、もういらない。コロナ禍をきっかけに整理が進み、ほとんど死につつある大学という存在にイノベーションが起きるなら、災い転じて福となる。

 

 

 

 

 

 

2020年7月14日 (火)

なぜオンライン教育に関するデータ収集が必要なのか?

 

 

コロナ禍が東京問題なのか、いずれ分かることだが、東京都を含めて学校が通常授業の形態で実施されるようになり、オンライン教育に関する記憶が薄れようとしている。喉元過ぎれば熱さを忘れて、OECD諸国で最低のICT活用状況からも、目を背けるのは誤りである。学力が高いと喧伝されてきた我が国にとって、面目丸つぶれの話だが、これが誰の責任なのか、改めて明確にしてもらいたい。それはさておき、未来への教育政策の検討にも、教育手法の改革にも、全国でのオンライン教育の実践に関するデータの蓄積に早急に取り組んでもらわなければならない。ここでは、そのための具体策に関して、幾つかの提案をしておきたい。

 

 

1に、学校教育の現場での実践を可能な限りすべてアーカイブ化することである。仕組みは文科省が主導して構築すればよい。網羅的に収集することにより、専門家による分析を経て、現場での独自の優れた教育実践を抽出するとともに、教育委員会によるオンライン教育への取り組みについて、今後の課題と将来への展望が明らかにできるはずである。このアーカイブは、個人情報保護の観点から調整のうえで、調査研究を希望する者には学校関係者を含めて広く公開することが望ましい。コロナ禍がなければ、我が国の遅れを強く認識する機会もなかっただろう。その意味で、災いも転じて福となしうる。こうした事態に陥ったのには、複合的な要因があるだろうが、特に、ICTの教育利用について、意思決定に携わる教育関係者が、総じて無能力・無関心・無責任だったからであろう。上から下までICT音痴がそろっているようでは、OECD諸国で最下位もやむをえまい。かりに自治体の首長がいかに熱心でも、教育委員会が「できない理由」や「やらなくてもよい理屈」を繰り返しているうちに、今日の体たらくを招いたものと思われる。したがって、責任と権限のあるポストに、できる人、やる人を起用しない限り、今後も変革は期待できない。

 

 

2に、オンライン教育に関連して、教員及び保護者への包括的な全国調査を行うことである。オンライン教育は、家庭の社会経済的地位の格差が、児童生徒の学習成果(学力)の格差を一層増幅したとの指摘がある。コロナ禍による家庭の経済(収入)への影響、家庭におけるICT環境、在宅での学習の実施状況、保護者による指導可能性などを含めて、踏み込んだ調査を行い、オンライン教育を契機に、我が国の戦後教育が取りこぼしてきた「教育格差」の本質について、実態把握のためのデータを取得することが望ましい。また、教員については、自らのICT活用能力、児童生徒の学習効果、家庭環境が低位の児童生徒への指導などに関して、情報データ収集を行う必要がある。同時に、教員及び保護者から、現状の改善策についてもアンケートを取ると良いだろう。マスク2枚を全戸に配布するために、数百億円の国家予算が支出されたのは、腹立たしい限りだが、上記の調査に数億円かけても、罰は当たらないだろう。予算を組み替えてでも今年度内に実施する価値がある。

 

 

3に、ICT活用に関する環境を整備し、予算を付け、情報を集積したとしても、最終的に現場の教員のICT活用能力が向上しないと、児童生徒への教育効果は期待できない。徹底的に研修によるレベルアップを図るしかない。そのためのシステムの整備が急務である。さしあたり、民間資格であるデジタルアーキビスト(上級・正・準)の取得を目指すことにしたらどうか?また、個々の教員のスキルアップは当然だが、現場の底上げを図るには、スクールカウンセラーのような位置づけの専門人材を学校(あるいは学校群)に配置したらよいのではないか?特に、技術面でのサポートが充実すれば、一般教員にとって、未知の領域を開拓していく際の不安の解消に大いに役立つだろう。その際、学校司書教諭や学校司書の制度は、ICT支援を含むライブラリアンの新しい形に、見直すべきだろう。眠り込んでいた後進国ニッポンは、この分野で、よほど継続的に頑張らないと、国際的な先頭グループに追いつけないだろう。

 

 

4に、大学に関しても、オンライン教育の実態をきちんと調査しておく必要がある。高校も底辺校から進学校まで実質的に教育には大きな違いがあるが、大学ではピンからキリまでの幅が一層増している。現場で行われているオンライン教育(方法も内容も千差万別のようだがブラックボックスに入っている状態)が、学習成果の観点からどう評価しうるのか、法制度の運用という意味からも、実態を把握しておく必要がある。その上で、オンライン教育という新しい分野に関して、我が国として、有用なノウハウを蓄積していくべきである。多くの大学で、オンラインは一時しのぎの暫定的なものとしか認識されていないようなので、残念ながら世界から取り残されてしまう危険性が高い。大学の経営者たちのレベルが問われるところだが、一流企業の経営陣とは異なり、ICT活用に精通した者が理事や副学長に全くいないケースも珍しくない。そうした大学は、学生にとって気の毒なことに、授業料のコスパが極めて悪くなっているはずである。

 

 

以上、文科省には、コロナ禍を契機としたオンライン教育の実践に関して、時を移さず、全国的な情報データ収集を行い、教育施策や指導実践に生かしていくことを期待したい。今日において極めて重要な課題となっている教育格差の緩和、ICTの教育活用の推進に、本腰を入れて取り組んでもらいたいからである。一部の知事さんたちが震源となった9月入学騒動はすっかり収まったので、意味のある情報データ収集に基づく本格的な政策立案を実現することが、国民からの信頼回復になるだろう。情報データ収集の機を逃すことは、明るみに出た後進国ニッポンからの脱出の機を逃すことになる。ICT教育活用が最下位という汚名を着たまま、不作為を続けるとすれば、到底罪を免れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年6月18日 (木)

21世紀において学校教育で国民を教化できるのか?

本田由紀「教育は何を評価してきたのか」(岩波新書)を読んで、内容に共感した点も多数だが、ここでは、私なりの別の見方について紹介しておきたい。簡潔にまとめれば、教育基本法改正後の保守回帰の動向は、成果という面では空振りに終わる運命にあり、国家目標が不明確な我が国では国民の教化は実現しないということである。以下、ポイントとなる点について記述していく。

第1に、本田氏が「ハイパーメリトクラシー」への転換と表現している[生きる力](確かな学力、豊かな人間性、健康・体力)という理念の導入については、当初から、知・徳・体の調和を言い換えたものに過ぎず、特に新しい概念とは受け取れなかった。しかし、学校教育の役割として、定義・測定不能の人間性の涵養を学力と並べたために、現場には、長らく混乱をもたらしたと考えている。当時、「ゆとり教育」から「確かな学力」への方針転換が進められたことも、現場での[生きる力]への取り組みを一層難しくしたものと思われる。そもそも、[生きる力]自体が、十人十色の内容であるとともに、本来、学校で身につくはずのないものであった。生徒・保護者にとって、特別に信頼関係がある教員以外からの指導は、単なる大きなお世話に過ぎない。どうとでもとれる術語を提示して、中身があるようなふりをするというのは、教育行政の常であるが、[生きる力]は、その典型であった。実際には、「ハイパーメリトクラシー」は、どこにも存在しようがなかったのである。しかし、この用語に囚われて、学校教育は、国家にとって都合の良い「道徳的な」人間の育成に取り組まざるを得なくなっていく。その最初のつまずきが[生きる力]であったとも言える。初めて目にした時に、胡散臭い言葉だと感じたが、文科省にとっては自ら掘った穴に深くはまっていくことになる。そのことは、自業自得である。

第2に、「資質・態度」の「水平的画一化」という用語は、「能力」の「垂直的序列化」と対をなしているが、結局、画一化ではあっても、何ら水平的ではない。やはり、江戸時代以来の分相応という序列を前提にした教えと捉えるべきであろう。ただ、戦前は、軍隊という特殊組織において徹底的に教化がなされたので、21世紀において、学校教育で教化を担うといっても、所詮絵空事にしかならない。また、育成すべき能力・資質として中教審答申で1996年に列挙されたポイントを見ても、軸となる道徳哲学はなく、「日本教」特有の中空構造になっており、これといった方向性がない。まさに優等生的で、普通の大人なら、これらをすべて満たした完全な人間などいるはずがないと感じるだろう。「水平的画一化」を突き詰めれば、2.26事件を引き起こした青年将校たちの革命思想に繋がるのではないか?「水平的画一化」が実質化するのは、巨大災害あるいは戦争に直面した時である。それ以外の平時には、精神的または物質的に恵まれない、社会に強い不満を持つ人間の悲しい幻想にすぎない。あくまで、「顕教」として、国家に貢献・奉仕することが個人の幸福(本懐)だという教義を一般国民に対して刷り込もうとしたものだろう。ただし、国家と個人の利益はしばしば一致しない。ある程度、知的な能力のある人々には、国家有為の人材を目指すことを条件に、個性の伸長、リベラルな価値観、自由の尊重を、個人の成長の手段として保証することになる。そのような状況が半世紀以上も続いており、教育は本来的に個人の自己実現の手段であり、純粋に個人に帰属する利益であるという「密教」の真理は広く国民に共有されている。これは、国家に教育目的を集約することが、論理的に不可能であることを物語っている。本田氏が言うように、「水平的画一化」の推進が青少年の息苦しさ、閉塞感の主因かどうかはわからないが、国際比較に見る日本の18歳の異常なまでの、未来への悲観、社会的な無力感については、分相応な幸福で満足したいという現実的な本音を持ちつつ、限界突破で夢を追えという漫画アニメ等の全能感に満ちたメッセージに共感する自我が抑圧された状態を意識するゆえの苦悩ではなかろうか?一人っ子が多いので、親からの支援も手厚いため、肥大化した自我に、現実の自分が押しつぶされてしまうケースもあるだろう。努力すれば、皆がイチローになれるわけではない。日本の18歳は、国際比較の上では、恵まれた環境を享受しているはずだが、より高い自己実現を自分に期待すれば、実現できない自分を不幸だと感じることだろう。そういう青年には、頑張りすぎて自分を見失うことを避ける知恵を授けた方がよい。

第3に、2000年代の教育基本法改正等の保守回帰は、学校教育で国民を教化できるという前提に立っている。学校教員が子供たちを道徳的に指導できる、国家が道徳哲学の基本を提示しうるという想念に基づいている。敷かれたレールを進むように、特別教科として、小中では道徳、高校では公共という科目が設けられたが、保護者からの校長・教員への信頼感は決して高いとは言えない。また、日本国憲法下で、教育勅語のような経典が作られることも考えにくい。近代は遠くなりにけりであって、古来、国家というものにつきものの、巨大プロジェクトや戦争といった目標も持たない現在の日本では、国家の道徳哲学は生まれようがない。国民を動員する目標がないのだから、国家がもはや意味のある国民教化の軸を持っていないのである。この際、2003年から2006年の間に、与党の教育基本法改正に関する検討に従事した国会議員の方々を対象に、オーラルヒストリーを残してもらうよう、働きかけたらどうだろうか?本田氏も、この間の経緯がまったく非公開で空白になっているとしている。我が国の教育史にとって、極めて重要な法改正であるだけに、この間の実質的な議論の推移をアーカイブ化して後世に残すべきであろう。政治学者または優れたジャーナリストの出番だろうが、私としては、主導した政治家たちに、法改正によって、保守派の考える理想の教育は実現したと思っているのかも、ぜひ語ってもらいたい。

最後に、本田氏のいう出口(変革)の可能性について、簡単に述べておきたい。私は、本田氏よりも楽観的で、2000年代の保守回帰は、成果らしい成果に至らず、最終的には、自由を尊重したリベラルな価値観を原点に、外国人移民を抱えていく国家として、現在の与党を含めて、軌道修正を行うことになるものと考える。国家が道徳哲学を持ちえない以上、学校教育による教化は諦めるしかない。心の問題は、基本的に宗教の役割である。国家は無色透明にしておくほかない。戦争も巨大プロジェクトも持たなければ、国家には、国民の世話役以上の役割はない。21世紀においては、国民教化の必要もない。例外があるとすれば、コロナ禍への自衛を怠らぬことや特殊詐欺に引っかからぬように啓発することくらいだろう。コロナ禍対策の自粛期間に、吉本興業所属の「霜降り明星」の漫才で、小学校の1限から6限まで全部「道徳」なら、学校ではなく刑務所だろうという突っ込みを聴いたが、笑いの中に真実が込められた優れたフレーズだった。国家が学校教育で教化するという幻想は、既に笑い飛ばされている。

 

2020年5月23日 (土)

オンライン授業の実態はどうなっているのか?

2020年度前期は、大学の授業の大半がオンラインで行われている。テレビ会議で使用されるZoomを使用すれば、双方向性が担保され、ある程度の数の学生への授業に支障を感じない教員も増えてきていると思うが、それぞれの大学により、ほぼ同時並行で試行錯誤によって経験が積み重ねられてきたこともあって、その実態に関しては、大学間格差が甚だ大きいと感じている。取り組みに関して、大学としての統一的なビジョンのもとに進められているか、準備段階から工程を管理しながら計画的に進められてきたか、オンラインによる教育効果を最大化するために努力がなされてきたか、コンプライアンスの観点から著作権等が適切に保護されているか、学生の受信環境の整備について支援を含めて適切な配慮がなされてきたかなど、総合的な評価が行われるべきだろう。

こうした点に関して、合格点を取れる大学は、おそらく全体の20%以下ではないか?コロナ禍への対応は、全世界の大学にとって事業継続=キャンパスに来られない学生への教育活動の維持という難題を突き付けたが、我が国の大学のうち、歴史的転換点になるという意識をもって、オンライン授業に取り組んでいる大学はどれほどあるだろうか?こうした課題への対処に後れを取れば、世界の大学や潜在的顧客である学生からは相手にされなくなる。特に、学生一人一人を取り残さずに授業に参加させるために大学として何をしてきたのかについては、大学の本質にかかわる重要なポイントである。新たな事態に向き合って、あるべき教育を考えるのではなく、一時凌ぎさえできればよいと形を整えるだけの姿勢の大学は、この際、退場させる方が世の中のためだろう。公衆送信されたといっても、資料だけ提示して、後は自学自習させるようなやり方では、大学の授業とはとても言えない。それでは、学生や保護者がかわいそうである。そんな大学には進学してはいけない。

コロナ禍による制約条件によって、オンライン授業の実験が大規模に行われる機会が生まれた以上、その結果を将来に生かすべきである。その意味で、次の諸点を提案しておきたい。

1に、各大学で、オンライン授業のコンテンツ全てを可能な限り保存することである。授業は、大学の知的財産であるので、当然の措置なのだが、きちんとしたビジョンがない大学では、ここまで気が回らない。このデジタルアーカイブの中に、改善のヒントが隠されている。保存せずに流してしまえば、分析・評価もできない。

2に、大学ごとに、教育の質、コンプライアンスの観点から、オンライン授業について、自己点検・評価をさせるべきである。また、国からの資金交付を担う機関による各大学の実態調査を行う必要がある。教育の質が大学教育としての水準を満たしていない、あるいは、著作権侵害等へのリスク対策が不十分である場合には、予算配分の減額をすべきだろう。これは、教学のトップである学長への評価といってもよかろう。

3に、学生からのオンライン授業への評価についても、抽出調査を行い把握すべきである。改善のための意見も聞くべきであろう。一時凌ぎ程度の認識しかない大学に在籍している学生は、おそらくコロナ禍で最も割を食った人たちだろう。もっとも、もともとの対面型授業が素晴らしかったとも思えないが・・・。

4に、こうした調査・分析結果およびデータについては、広く、社会に公表することである。大学の中には、教育の質、コンプライアンスに関する指摘を恐れて、学内にも情報を出そうとしないものがある。情報共有が不十分な大学には、問題が山積しているとみて間違いない。監事がこの面で役割を果たしてくれれば良いが、特にオンライン教育について知見のある監事を有している大学は少なかろう。

5に、オンライン授業で利用された著作物等に関して、きちんとデータを取ることである。SARTRASによって、権利者の許諾を得ることなく、著作物を公衆送信することが一定条件のもとに可能となった(今年度は例外的に無償)が、近未来には補償金の積算・支払い・分配という業務が行われることになる。その前提として、利用の実態把握は欠かせない。そのためにも、オンライン授業に関して包括的にデジタルアーカイブ化しておくことが必要なのである。

最後に指摘しておきたいのは、オンライン授業を制する大学が、近未来の覇者となるということである。キャンパスの教室という密室では、どんなにダメな授業が行われても、単位を求めて囚われている学生たちには選択肢がなかった。どんなに他人の権利を侵害する資料の提示が行われても、直ちに学外に出ることはなかった。そういう時代は過去のものとなる。進行中のオンライン授業では、おそらくコンプライアンス違反が平然と行われているだろう。大学という組織体は、そうした無法状態を放置して知らん顔をし続けられるはずがない。オンライン授業には、教育効果の向上のほか、学生負担の低廉化、現在地にとらわれない学習機会の提供、オープンサイエンスの推進など、社会システムとしての大学改革の観点から、種々の可能性がある。コロナ禍が、それをもたらしてくれたと評価できる日が来ることを信じたい。

 

 

 

 

 

 

2020年4月29日 (水)

どのような課題を解決すれば9月入学を実現できるか?

コロナ禍への対応を機会に、全国知事会から9月入学推進の声が上がっている。9月入学にすれば、どんな良いことがあるのか、精査が必要であり、社会的合意形成には、まだ時間がかかるだろう。9月入学は、教育改革の議論が始まると常に議題になることでもあり、一部の大学だけで実行しようと試みた経緯もあるが、高校以下が4月入学のままでは、学生に空白期間の待機を強いることが避けられないために、結局定着することなく、一旦忘れ去られている。国を挙げてウィルスと戦う中で、突如としてオバケが出てきたような印象も持つが、本当に実行するならば、どんな課題があるのか列挙してみたい。どれも簡単な話ではない。

前提として、9月入学とは、すべての学校種を通じて、4月入学を9月入学に改めることだと定義しておく。転換期には、4月入学した学年と9月入学した学年が、同一の学校内で混在することになる。また、9月入学への転換の際には、入学時期を遅らせることになるので、前年の4月から当年の8月までに生まれた子供(17か月分)が入学する。したがって、一時的に学級数が増えることになる。転換の方法については、幾つかの選択肢を設けることも可能だが、考える前提は、直球勝負のフル9月入学ということにしておく。

考えられる課題は、国の制度の変革を要するもの、社会的に解決が必要なもの、教育界で対処が必要なものに大きく区分しうる。

まず、国の制度に関わる点を挙げてみたい。第1に、予算制度との調整である。学年歴が9月から8月までに変更されるため、国の予算制度(4月から3月まで)とのズレが生じることになる。そのため、予算年度の切れ目で、決算作業が必要となり、年度の端境期には予算執行が一時的に止まることになる。この弊害を緩和するには、9月から8月までの2予算年度にまたがった予算執行を例外的に可能にする仕組みが必要になる。予算の単年度主義は非常に固い原則であるため、ここに風穴を開けることができるかが、9月入学への転換の成否を握るといっても過言ではない。第2に、国家資格や公務員等の採用試験などの時期を、学年歴との関係でどの程度調整できるかが重要な課題となる。単純に言えば、5か月後ろ倒しにできるかであろう。この点は、採用=就職の時期とスケジュールとの兼ね合いもあるので、多様な関係者の合意形成抜きには進まない。これは、9月入学への転換の論点の中で、学生や保護者の関心が最も高い点でもある。

次に、社会的なシステムの変革である。上述した就職活動のスケジュールもその一つである。そのほかの点を挙げれば、第1に、学校関係の人事システムも、9月入学になれば、当然に、9月が採用・異動時期になるので、4月を起点とする一般の人事システムと乖離する可能性が高い。教育界だけが別のシステムでサイクルを形成するのは難しい。社会的なシステムを教育界の都合に合わせることも難しい。第2に、スポーツに関して、学年歴の末に当たる夏季に行う大会は、卒業や入試の時期と重なるため、卒業生や受験生の参加が難しくなる。スポーツの側で時期をずらせるならよいが、容易ではあるまい。スポーツの論点は、社会的な関心も高く、簡単に乗り越えられるとは思えない。となれば、9月入学への反対論がスポーツ界(体育スポーツ系大学を含む)から起こってもおかしくない。第3に、転換期には4月から9月まで新入生の入学時期が遅れるために、学校にとって、入学定員×5か月分の授業料に相当する収入が減る。この収入減は回復不能で、学校経営には半永久的な負荷になる。特に、私立学校の場合に重大な問題になりうる。9月入学への転換の費用の一部として公的な支援が必要であろう。あるいは、転換期の収入を補うために、上級学校に進学する際の4月から8月までの空白(待機期間)において、対象となる学生・生徒への予備的な教育サービスを教育機関に有料で提供させる可能性も検討すべきだろう。その際には、コロナ禍への対応で注力しているオンラン授業の成果も活用したらよい。

最後に、教育界において対応すべき点である。上述の待機期間を教育の観点からどのように有効に活用するかについて、知恵を絞る必要がある。大学等では学校間の競争領域になる。そのほかの点として、第1に、学年歴の再構築である。夏季休暇等のタイミングで、オープンキャンパスやインターンシップなどの行事を組み立てているが、すべてがずれてくるため、適切な見直しが必要になる。2021年夏には、東京オリンピック・パラリンピックが開催される。この時期に、わざわざ9月入学の初年度をぶつけることはないだろうが、かりにそんな事態になれば、入試や単位取得・卒業と重複するので、大学教員や学生ボランティアの参加への制約条件になる。第2に、9月入学の最大の目的である競争力(特に国際性)の強化である。大学に関しては、海外大学との短期学生交流を含む種々のプログラムの実施が求められる。グローバルに認知されることを目指す大学においては、モデル的な学科のみならず、大学の国際性の平均値を上げる必要があろう。種々の社会的費用を負担して、国民的合意に基づき9月入学を実現したとすれば、教育における具体的な成果が達成されなければ詐欺になる。最終的な責任は、専ら教育界に掛かってくるのである。

以上、まとめると、9月入学には、社会的システムの変革、社会的費用の負担、新学校システムの社会的包摂という課題がある。これらの課題解決は容易ではない。それらを乗り越えてでも、本当に9月入学を実現したいのかどうか、十分考えるべきだろう。もっとも、9月入学が、どんな利益を我が国にもたらすのか、冷静な分析・判断が、その前に必要であることを忘れてはならない。コロナ禍を機会に変えたいという気持ちには共感できるが、今の我が国の大学に対する財政措置が大きく変わらないとすれば、9月入学によって国際的競争力が格段に向上するとは思えない。全国知事会の方々は、志の高い大学人にも、よく話を聞いてみたらよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年4月 9日 (木)

どれだけの大学がコロナ禍以後への準備ができているのか?

7都府県に感染症による緊急事態宣言が出たが、大学教育も歴史的転換点に差し掛かっている。こうした認識を持てない大学は、生き残れないだろう。ICTの活用については、世界は先に離陸しており、有力大学間の競争が本格化している。なにしろ、東京のように外出自粛ではなく、ニューヨークやパリ等では、自宅に閉じ込められているのだから、大学教育はオンラインで受けるしかない。いささか出遅れているにも拘らず、コロナ禍による授業開始の遅れは、一時的な措置だと高をくくっている大学があることには、驚きを禁じ得ない。少なくとも前期の授業を全面的にオンラインに切り替えると公表している大学は、まだ少ない。キャンパスでの授業を行っていない現時点で、48にも上る大学で感染者が確認されている。授業が始まれば、感染爆発は火を見るよりも明らかである。焼け石に水としか思えない感染予防措置で、56日の緊急事態宣言の対象期間終了後に備えようとしている大学には気の毒だが、無駄な努力だと思う。

どうしてもリアルな授業の実施にこだわるのには、彼らの利益に関わる理由がありそうである。第1に、大学という組織・施設の意味が相対化され、設置基準により保証された既得権が失われかねないことである。第2に、大学教員という職業に変革がもたらされることから、教員の既得権が危うくなるからである。第3に、授業自体がデジタルコンテンツ化されれば、教員の数も淘汰される可能性がある。経営側からは、特に非常勤教員の雇用を減らすことができるという見方がされている。

確かに、オンライン教育は大学経営や教員の地位に影響を及ぼす可能性も無視できない。しかし、大学という比較的浮沈の少ない業界に大きな変革の波となって押し寄せる、下手をすると長い歴史を持つ大学さえも、丸ごと飲み込んでしまうほどの歴史的転換点となる可能性がある。そちらの方が、大学人にとって、より大きなリスクであり、またチャンスと捉えられるだろう。にもかかわらず、潜在的恐怖ばかりを感じているために、コロナ禍を短期的に乗り切る方策とだけ考えて、小さなパッケージで「オンライン授業」を実施しようとしている大学もあるようである。「オンライン授業」の標準があるわけではないが、単に、Web経由で教材を配布して、自学自習によりレポートを提出して終わりということでは、郵送で問題や添削答案が届いた40年前のZ会の受験指導の方が、中身はよほど効果的だったと思う。要は、その名に値しない「オンライン授業」しかできない大学は、自らの価値であるべき教育=授業を放棄しているだけなのである。この事態の中で、学生に大学らしい授業をいかに届けるか、誠心誠意取り組まないような大学には、金輪際、進学しない方が良い。「オンライン授業」を大学への試練=試験だと思わないなら、すでに競争に敗れている=死んでいる大学だということである。

「オンライン授業」として、遠隔会議システムであるZoomを利用したライブ型(録画機能の利用も可能)、収録した授業を配信するオンデマンド型は、学習効果をチェックする仕掛けを組み込むことで、教育質保証が担保されうるだろう。また、パワーポイントに音声を付したものも授業の代替手段としては、一応、合格点となりうるものである。ただし、学生による作業の時間、理解度の確認テストを組み込むなど、教員から一方的に講義する旧来型のスタイルではなく、知識が定着する授業への工夫が不可欠である。

手法の選択と並んで気になる点は、学納金を受け取っている大学が組織的に取り組んでいるというよりも、大学が雇用している個々の教員による対応に委ねている様子が垣間見える点である。Zoomを利用してライブで授業を行うのは教員に違いないが、授業の構成をオンライン授業に適した形態に変革するためのノウハウが学部で共有されているとは限らない。誇り高い大学教授に対して自動車教習所のような指導は行えないだろうが、これまで行っている授業を、そのまま行うのでは教育効果は、リアル授業に比べても相当下がってしまうに違いない。また、危機に際して欲張りすぎるのは難しいとはいえ、日本の学生が週間に履修する科目数が多すぎるという問題に鑑みれば、授業の形態をアメリカの大学並みに予習重視型に改めて、まずは履修を週間8科目以下に抑えること、そのために全授業科目を大幅に削減することに着手することが望まれる。

「オンライン授業」には、大きな副産物がある。第1に、物理的な距離を超えて履修が可能になることである。海外で合宿している学生アスリートにリアルな授業に近い教育を受ける機会になるばかりか、一般学生にとってもキャンパスや学部を超えての履修が自由になる。さらに、大学間の連携措置で、他大学の授業が履修可能にもなる。有力な授業コンテンツを有する大学は、経営的な武器を手にすることにもなるのである。第2に、教員の授業改善の契機となりうる。いわばFD研修の実践版である。結局、魅力のある授業を行う力がある教員が、富と名声を手にすることになるだろう。そういう教員をそろえる大学が競争に生き残るに違いない。第3に、大学施設等の「装置」に該当する部分の価値が相対化するということである。私立大学は、学生募集のために、キャンパスの施設設備に投資をしてきたが、快適なキャンパスよりも充実したICT環境と授業が面白くてためになる看板教員に投資した方が優位に立つことになるだろう。

文科省も急速にオンライン教育へ舵を切っている。コロナ禍が一段落しようとも、2020年は、大学にとって歴史的転換点である。変革に尻込みするなら、淘汰は避けられない。大学の経営力、特に経営層の力量が問われている。コロナ禍は健康面でも経済面でも苦しいことばかりだが、歴史的には、大学人に新たな挑戦への舞台を開けてくれたと前向きにとらえていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年3月24日 (火)

なぜリスクの伝達にデータもサイエンスもないのか?

コロナ禍への対応に、世界各国が苦慮しているのは間違いない。自己宣伝ばかり聞かされるが、どの首脳がうまくやっているのか、今のところは不明である。3月中旬以降、極端な方策を導入した国は、それまでの対応に致命的な失敗をしたということだろう。日本の中も、感染者の発表が県単位で行われることから、まだ対岸の火事だと感じていた人たちも多かろう。同じ県でも、旧藩が異なれば、自分のことだとは思わないのは、無理からぬ面もある。この連休中に「県境を越えないで」という要請が知事によってなされたが、まともに受け取る方がバカなのかもしれない。

思い起こせば、始めは中国湖北省やクルーズ船の問題に過ぎなかったが、3月初めにいきなり全国の小中高校を閉鎖するという政府の要請が発せられて、危機を実感できないまま、ドラッグストアにマスクや紙製品を買いに走るはめになった。WHOによれば、マスクには自分の感染予防の効果は期待できないというが、しないで通勤電車に乗るのはマナー違反=人間失格と見なされかねない。人間扱いされたいがために、マスクをするというのは、実に日本人らしい行為だと感じる。

ただ、専門家の解説を無視するわけではないが、多くがマスクをしていることで、感染者数が爆発的に増加するには至っていないのかもしれない。スペインあたりからの帰国者が、飛行機や新幹線で移動したはずだが、乗客がクラスター感染になったという話が出ていないのは、手洗い以外にマスクの着用が何らかの意味を持ったのかもしれない。

しかし、それにしても、マスコミに出てくる専門家から、データをきちんと示して、今後の感染拡大の予測、種々の対策による効果に関する説明がないのには、摩訶不思議な印象を禁じ得ないでいる。彼らは、本当に、感染症対策の専門家なのだろうか?リスクの解説を文学的表現で行うなら、文字通り無知な人を分かったような気にさせることはできても、普通の人たちを、適切なリスク回避行動に導くことは、期待できないだろう。

大規模な大学では、卒業式と入学式を取りやめるか、ごく縮小して行ったところが大半だが、高校以下の学校の授業を犠牲にしても感染予防に取り組む中で、数千人規模以上の集会はできるはずもないから当然である。ただ、3月下旬になって、新学期から、学校の授業を再開する方針が、文科省から示された。私自身は、国内の感染者数データの変化を踏まえれば、教職員、児童生徒の感染のリスクを考慮しても、コロナとの戦いは長期戦になるがゆえに、学校はできる限り通常通りに活動すべきだと考えていたが、官邸からの要請と文科省の新方針の判断根拠が全く不明なので、ここはぜひ、今後のリスクに関して、本当の専門家の解説を聞きたいと思う。

また、大学に関しては、全面的にオンライン授業を実施するという例もあるが、そうした準備が整っている大学は少数にとどまる。最近、テレワークの拡大の影響で、Zoomという遠隔会議システムの利用が急増して、以前に比べて、安定した状態で通信できなくなっている。恐らく回線の混雑が原因だろうが、大規模大学が一斉に、オンライン授業に走ったら、通信の急増でパンクするかもしれない。加えて、就職活動の情報収集、部活動への参加、図書館等の利用など、大学に行く必要がある場面もある。完全に大学という施設の利用が不要になるはずはない。大規模大学になれば、授業日であれば、キャンパスには3000人に上る学生が来ているので、週末を除いて毎日、大きなイベントをやっているようなものである。こうしたリスクをきちんシミュレーションして、推計データをもとに語るべきである。

文科省は、安倍政権下で、大学入試改革(民間英語試験の活用、記述式回答の導入=ギリギリの段階で撤回された)や就学支援措置(=国の施策として成立していないレベルとの厳しい批判がある)でも、根拠データを示さずに突き進み、惨めな結末を招いた苦い経験がある。反省するならば、今度こそ、データとサイエンスで詰めた上で、判断基準を明示して方針を示すべきだろう。検討のプロセスも詳らかではないが、学校再開ありきで、考慮すべきリスクを軽視したとすれば、その責任は非常に重い。その結果、3月中旬以降の欧州のようになることはないという根拠があるならば、今、きちんと示してもらいたい。

少なくとも、リスクについて、保護者を含む学校関係者に、理解可能な形で伝えるべきではないか?かりに児童生徒に感染者が出た場合、学級全員の検査ができる体制は、その地域にあるのだろうか?あるいは、濃厚接触の範囲が、中高校では、学年、学校全体に拡大するかもしれない。大学に至っては、感染者とキャンパスで接触した者が千人単位になってもおかしくない。そうした事態への対処を想定しているのだろうか?大学当局は、可能な限りの努力はするだろうが、外部から無意識にウィルスを持ち込まれることを防ぐことは不可能であり、リスクをゼロには絶対にできない。最終的には、検査以上に、重篤化させないよう医療体制を構築してもらうことが、こどもの安全安心にとって最重要である。

決め手となるワクチン開発・普及の想定時期まで、地域ごとに、重篤化しつつある感染者数を、受け入れ可能なベッド数(増強するとしての上限)の範囲に抑えるために、合理性のある措置であれば、国民は、学校閉鎖でも外出禁止でも、一定の期間は、理性をもって受け入れるだろう。その作戦が不明確で、今はどうのこうのと文学的表現で語っても、コロナ慣れ(飽き)してしまったために、要請に従って自粛をしない者がいてもおかしくない。既に、そんな言説には危機感を感じられないからである。賢者を集めて、冷厳なデータとサイエンスに基づく作戦を樹立して、理路整然と解説して、国民の理性に訴えるしかない。経済対策を含む国家予算を組むのであれば、低所得者の生活支援のほか、地域の医療体制の臨時的強化措置を最優先してもらいたい。

コロナによる感染も死者も、じわじわと確実に増えている。しかし、今日も、渋谷の街は昼夜賑わっている。もしも、検査対象に入っていない感染者が、街に入っていれば、2週間のうちに爆発的な感染拡大が起こっても不思議ではない。欧州に比べて、日本はマスクこそ不足気味だが、人々の行動は、まだ暢気である。それは、データとサイエンスで語らない政治家や専門家のせいではないか?最近、テレビで顔を見るたびに、いい加減にしてもらいたいと怒りを覚えるのは、私だけであろうか?

 

 

 

 

 

 

2020年3月12日 (木)

なぜコロナ禍が学校システム改革の機会になるのか?

「瀬戸際」だとされた2週間が過ぎても、当然ながら感染拡大は続いている。検査の円滑化が進めば、データに表れる感染者数は更に増加するだろう。コロナ禍への政府の対応には頷けない点も多々あるが、この機会に社会システムとしての学校について再考し、コロナ禍を乗り越える基盤を構築することを望みたい。学校や関係団体はもちろんのこと、文科省や教育委員会でも、恐らく目前の予定の変更判断だけで手いっぱいに陥っているのではないか?それでは困るのである。

WHOがようやくパンデミックと宣言したコロナ禍は、今後、長期化するものと考えられる。コロナ発祥の地ともいうべき中国では「抑え込んだ」ことになっているが、人々の移動を極端に制限する措置を解除すれば、再び感染が拡大するだろう。中国のような政治体制を持たない欧米や日本では、戒厳令のような外出禁止措置は現実的ではない。したがって、あらゆる社会システムを停止状態に置くことはできない。学校における教育活動もその一つである。

4月になれば、幼稚園から大学院まで、学校というシステムを普段通りに動かさないと、幅広い年齢層の学習に影響が広がる。大学・大学院は、年間15週×2期の授業を確保すれば、単位を与え、学位を授与することは可能だが、それでも、4月下旬には授業をスタートして、途切れることなく7月下旬まで前期の授業を続ける必要がある。他の学校類型は、これほど授業のスタートを遅らせることは難しい。しかし、漫然と学校の授業を始めれば、コロナ禍による感染が学校で拡大しかねない。

簡単に図式化すれば、学習保証を取るか、感染抑制を取るかの2択である。科学的根拠が全く示されなかった「瀬戸際」の措置を繰り返すことは基本的にありえないと思うが、感染拡大の状況によっては、学校が部分的かつ一時的に機能を停止せざるを得ない場面も想定しておかなければならない。現場では、一般企業で作っているBCP(事業継続計画)に相当するものを、可能な限り準備しておくべきだろう。一方、社会全体として考えておくべき事柄がある。そのポイントは、次のようなことである。

第1に、大学等では在宅での学習をいかに保証するかである。遠隔授業やe-learningシステムによる代替が想定される。これについては、ある程度経験を有している大学等もあるが、コロナ禍を契機により広く普及させることが望まれる。既に、基盤となるシステムを提供している企業があるので、個々の大学等の判断で契約して、授業コンテンツをデジタルアーカイブ化する動きも水面下で広がっていくだろう。本来ならば、文科省(又は総務省)による共通基盤の構築を期待したいところだが、そこまで頭が回らないかもしれない。高校以下の学校についても、標準的な授業配信のシステムを整備して、全国の力量ある教員が作成する授業コンテンツを学年・科目ごとに順次収録して提供すれば、学校が休業することによる学習の遅れへの不安を払しょくできる。

第2に、学校の概念の見直しである。簡単にまとめれば、すべての児童生徒に一律の機会を提供するというのではなく、学習者側の視点で自ら選択するサービスの提供を行うという方向への転換である。例えば、在宅学習の環境がない者には、ICT利用のために積極的に登校を促すのも一案だろう。また、家庭の事情で昼食が用意できない小学生には、登校させて学校給食を提供すればよい。その前後の時間で、学習指導もできるだろう。さらに、学童保育に頼らざるを得ない家庭の子供は、勉強も見てやりながら、可能な限り学校で預かる方が安全安心である。すなわち学校で対応できるメニューを示して、学校での感染リスクも考慮してもらいつつ、保護者の希望によってメニューから選択することを可とするという考え方に変更するのである。マスコミを通じて流通している感染者情報は非常に限られているので、地方自治体が保健所を通じて地域のリスクを把握した上で、学校という組織の事業継続について、オール・オア・ナッシングではなく、柔軟にメニュー方式で運用できるようにする方が、コロナ禍への長期的な対応という意味で現実的である。近代化の過程で一律主義に凝り固まった学校観が、この際転換するのは、社会の進歩にとって望ましい。

第3に、学校機能の見直しである。学校は設置基準等によって、教員配置や施設設備について細かく規定されている。学校という施設に学習者を収容して教員から一斉に授業を受けるということが基準等の前提とされている。こうした教育のやり方が相対化されれば、設置基準等による縛りも相対化しうることになる。世界ではICTの活用により教育手法が既に革新されつつあり、我が国の設置基準等の縛りは障害になっている。コロナ禍への対応として、地域の実情に応じて、低学年だけは受け入れるとか、選択的に短縮授業にするとか、在宅学習の成果を個別指導するとか、学校機能の使い方には多様性があって良いだろう。また、e-learningを導入することで、学校機能の見直しが具体的に進むなら、今回のコロナ禍は、災い転じて福となるだろう。それに伴って、教員の役割についても、学習者への支援を重視するという方向で見直すことになるだろう。

以上のような観点から、コロナ禍という危機への対応については、学校というシステムを、根本的に変革する好機とすべく構想することが望ましい。それを政府に主導してほしい気持ちはあるが、先進的な私立学校や教育委員会が独自の工夫で先導役を担うというシナリオが現実的かもしれない。ただし、学校教育活動で1人も感染させてはならないというような非現実的な条件設定をしたのでは、社会システムとしての学校は必然的に機能停止に陥ることになる。文化・スポーツ等を観る機会、種々の社交の場への参加が、「自粛」という言葉で次々に制約されている。人々がストレスを溜めながら、出口の見えない日々を過ごすのは、誠に残念なことである。その結果としての経済的利益の喪失も、無視できない規模になっている。冷静に感染症のリスク管理をしながら、学校という社会システムが、変化する国民のニーズを踏まえて生まれ変わることを強く期待したい。

 

 

2020年2月20日 (木)

危機管理ができない国はオリンピック・パラリンピックを開催できるのか?

またしても、日本の弱点が浮き彫りになっている。危機管理ができない。今回は、原発事故でなく、COVID19 の感染症対策である。クルーズ船での信じられない感染拡大は、危機管理の失敗によるものだったことが明らかになりつつある。他国は、日本からの情報を全く信用していない。船上での長期の隔離を経て、陰性とされ下船した人たちを、改めて14日間、軍の施設などに隔離する措置を、アメリカが取ったことが何よりの証拠である。世界に大恥を晒した厚生労働省の責任は限りなく重い。

クルーズ船内の措置状況については、ごく一部が、一人の専門家により伝えられたばかりで、今後、正確に検証する必要があるが、正しい専門的知識に基づいた断固たるリーダーシップが採られなかったこと、現場からの正確な情報に基づく判断がトップレベルによってなされなかったこと、関係者及び国民に対して的確な情報公開がなされなかったことが、直接の問題であったのではないかと考えている。さらに、その原因は、後代の歴史家によって、長期政権による政・官の組織的弛緩・疲労に求められることになるのではないか?官僚組織は、危機管理が苦手である上に、やっている感さえ出しておけば成果は問われないと高をくくっていたのだろう。過去数年間に官邸周辺で起こってきたことは、厚生労働省にも、どの府省にも波及するからである。

例えば、14日間の隔離という措置をきちんと実施することができる国とできない国の差は、非常に大きい。今後、企業でも大学でも構成員が感染する可能性があるが、自宅等で待機というような緩い感覚でいれば、広く社会への感染拡大は止められないだろう。シンガポールなどでは、感染者の入院隔離までの行動について、詳細な情報公開が行われている。日本では、自治体の判断に委ねており、統一的な基準がない上に、情報公開としては全く不十分である。今の情報程度では、感染リスクを具体的に感じられない。国民の不安心理をあおらないことに重きを置く一方、肝心の情報を秘匿して、感染予防への危機感をきちんと持ってもらおうとしない。この状態では、国内の感染は、一層の拡大期に入るに違いない。クルーズ船から下りた日本人たちは、公共交通手段で帰宅した上に、以後の行動に制約はないのだから、確率的にウィルスは拡散されることになる。実際に、下船したアメリカ人の中に、帰国の途上で発症した人もいたくらいで、陰性だったサンプル取得以降の隔離が不十分だったために、運の悪い人が新たに感染したかもしれないのである。こうしたオペレーションの不具合に関しては、誰がどういう責任を取ってくれるのだろうか?

もう一つ、非常に奇妙なのは、大人数が集合するイベントに関して、いまだに統一基準がなく、主催者がそれぞれの事情で、開催中止や縮小、あるいは予定通り開催を判断していることである。天皇誕生日の一般参賀の中止、東京マラソンの一般参加者の出場停止から、流れが変わったのかとの印象を持ったが、大相撲大阪場所やセンバツ高校野球は予定通り開催されるというのである。この国は、一体、誰が指令塔なのか?興行の中止は大きなビジネス上の痛手となるので、主催者としては中止等の判断が難しい。しかし、一環性のある働きかけがあれば、犠牲を伴う協力もするだろう。何を犠牲にして、何を守るのか、中枢の誰かが責任を一身に背負って方針を決めなければ、結果として不徹底になり、感染症対策に重きを置いて中止や縮小措置を英断した者も、全く浮かばれないのである。正直者が馬鹿を見ることになって良いのか?

私たちは、国家的な危機管理の失敗を絶対繰り返さないと、2011年の3.11で、十分すぎるほど反省したのではなかったのか?日本社会は、民主党等の政権から自民・公明党の政権になっても、何も変わっていないということなのか?この縮図が、地方自治体や企業や大学にも、同じように残っているだろう。外国人から、日本人は、骨のない愚か者ばかりだと馬鹿にされても仕方がない。

今回の事件で、既に日本国の信用は地に落ちている。果たして東京2020を予定通りに開催できるのか?世界のアスリートは喜んで東京に集結してくれるのか?日本経済の落ち込み以上に、日本国の価値下落が止まらなくなることを危惧する。感染症のように人類全体へ影響のある危機管理ができない国は、世界の誰からも尊敬されない。世界では、やっているふりは、まったく通用しない。

 

 

2020年2月17日 (月)

COVID19対策ができている大学はあるのか?

多くの大学は、ある程度の規模の企業のように事業継続計画(BCP)をきちんと策定していない。今回の新型ウィルス騒ぎの最中に、これまで無作為だった組織に期待しても仕方がないが、4月に新年度が始まる前には、大学は、かなりのパニック状態になるだろう。今のところは、教職員や学生の中国等への渡航禁止・延期くらいが話題だが、中国に一時的に戻っている学生、あるいは新規に入学する中国人留学生が、学生寮やキャンパスに入ってくる。その他、国内外での感染拡大とともに、中国以外からのリスクを抱えた学生も同じように入ってくるのを避けられない。厚生労働省や専門家からは、既に感染症対策のフェーズが上がり、国内で広範囲にウィルスが広がりつつあることを前提に、組織・個人で可能な限りの対策を講じることが求められている。感染が更に拡大した場合に、BCPがないと、大学の幹部を集めて役に立たない会議ばかりを開いて、時間を浪費することになりそうである。

特に、懸念すべきは、感染が懸念される教職員・学生には、14日間の自宅待機を指示することから、2020年度前期については学業保証が極めて不十分になる恐れが強いことである。加えて、東京2020大会の開催期間を考慮して、授業日程を実質的に2週間ほど減少させている大学さえあることである。さらに、学内の感染が拡大すれば、最悪の場合は、大学又は学部単位でキャンパスを閉鎖せざるを得なくなるかもしれない。ヒト同士の濃厚接触が避けられない運動部等の活動も、かなり制約されるだろう。残念ながら大半の大学では、授業の代替となるe-learningシステムを有していない。かりにWeb経由で授業案の骨子が学べるもの(パワーポイントに音声を入れた教材)があれば、十分といえないまでも役に立つだろう。そのようなシステム運用サービスは提供されているので、緊急の予算措置が実現し、教員の理解・協力が得られれば、今からでも導入開始が可能である。この感染症が、結果として、e-learningという学業保証のバックアップシステムの導入促進に一役買うならば、迫り来る危機から未来への果実が生まれることになるかもしれない。そのようなシステムは、中堅以下の私学が苦しんでいる学生の中退問題にも効果的に使える可能性があり、教育質保証の本質である授業内容の評価・改善にも有用であろう。したがって、危機管理対策への投資であるとともに、より中長期の経営戦略上の意味もある。

BCPにおけるもう一つのポイントは、取り組みが遅れているテレワークである。大学には定型的業務が多く、それらはテレワークで十分処理できそうだが、働き方改革が叫ばれる中でも、マネジメントの動きは鈍い。簡単に言えば、日本の大学は効率的に仕事をしていないので、教職員の生産性が低い。夏季休暇中は、学生がキャンパスにいない関係で業務量が減り、CO2削減対策でキャンパスの閉鎖(通勤通学禁止)までしている。その間は、新規の企画・調査や業務改善などで、日頃できない仕事を学外ですればよいと思うが、そうした書類の作成、打ち合わせの遠隔会議は、テレワークでも十分可能である。かりに夏季休暇でもない時期に、相当数の教職員が14日間も自宅待機になれば、テレワーク環境もないので、業務に支障が出るのは明らかである。また、予防的な観点からは、満員電車での通勤というリスクもできる限り避けたい。それならば、テレワークを駆使して、実働できる教職員を確保する方策を考えるのが、マネジメントとしての責任だろう。COVID19は、無症状の感染者もあるくらいで、本人の自覚がない場合は、感染リスクの認識もないので、予防は厄介である。したがって、事態は最悪に向かう可能性が強く、何も準備していない大学は「想定外」と呟きながら、事業継続の局面において大混乱に陥るに違いない。文部科学省も、この件での当事者意識は薄いから、準備なく状況に押し流されていく大学現場の判断に委ね、実質的に傍観するつもりだろう。皮肉なことだが、本当に優れた大学経営者が誰なのか、COVID19のおかげで、間もなくはっきりしそうである。

 

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