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2019年10月

2019年10月30日 (水)

次期科技基本計画ではどのようにして流れを変えるのか?

文科省の科学技術・学術審議会総合政策特別委員会によって、「知識集約型の価値創造に向けた科学技術イノベーション政策の展開」と題する中間まとめが公表されている。これは、次期科技基本計画へのインプットに相当する文書であり、文科省としても非常に重要度の高いものである。

全体的な印象としては、以前から課題とされていた事項の解決が難しく、言わば構造的な改革が進まないために、かなり多くの部分が従来の繰り返しの内容になっているのは仕方がない。ただ、現状認識に関しては、危機感をより強烈に表現すべきであろう。基礎研究における日本の相対順位は低下の一途である。その点は、産業界も認識を共有している。また、博士課程への進学が進まない。若者にとって大学が斜陽産業(=教員ポストは削減傾向)に見えるためである。企業の採用行動は急には変化しない。博士への需要はまだ限られる。

一概に文科省だけの責任とは言えないが、今期の基本計画で打ち出されたSociety5.0が単なるスローガン以上には見えない。このほかにも、イノベーションエコシステムの構築、大学改革の推進、民間発の科技イノベーションの促進は、目標に対してどこまで進んでいるのか達成度さえ全く分からない。こういう状態では、次期科技基本計画に記載されても、掛け声だけと受け取られかねない。

特に、文科省にとって重要な基礎研究の振興策については、専ら科研費が重視されてきたが、基本的に、申請数による比例配分で分野領域に資源を配分するために、どうしても保守的な研究領域に偏向した配分になりがちで、結果として世界の学術の潮流には遅れる原因を作っている。国際共同研究を強化する方策を組み入れない限り、日本の地位復活はないだろう。学術に従事する者、特に学会のリーダーの責務であるが、既得権が絡んでおり変革は容易ではない。

提案の内容が、文面からは十分に理解できない点も多い。例えば、論文指標だけではない評価方法とはどのようなものか?デジタル革命による新たな研究システムとは具体的に何を意味するのか?この点は、国際連携の視点とともに、施策として一貫性のある記述が欲しい。人社融合など総論賛成、各論不明の内容もある。どう進めるのか?アンダーワンルーフという表現は、単に1機関で複合的な領域の研究チームを構成するということなのか、複数機関が1つの研究チームを形成することも可能にするのか?次期基本計画には、インパクトのある提案が必要であり、遠慮せずに堂々と主張したらよい。

若手研究者の支援にはかなり文面を裂いているので、力を入れているように受け止めるが、結局は、主として国からの予算がないと支援ができない。大学は人口減少期なので、国内の教育需要からはポスト増が期待できない。何か秘策を考えているのか?特定分野の研究拠点構築などにより、戦略的に重要な分野の若手研究者への支援を具体的に見せる必要があろう。国際頭脳循環への参画をどう進めるかという点にも、具体策が必要である。国際的なハブになっている研究機関を維持するだけでも投資が必要であり、若手を海外の拠点に送るにも機関で自由に使える予算の増が不可欠である。記述されていることは、どれも尤もだが、それを実現するにはカネがかかる。知識集約型社会へのシフトに向けて、我が国は「決断の分水嶺にあり」という表現には、今こそ投資をという気持ちが表れているのかも知れない。若手の人生を左右する決断を促すには、カネを含めて国の姿勢が問われる。

最後に、規制改革に関して述べておきたい。結論から言えば、社会実験への規制に風穴を開けるよう、もっと大胆な記述が必要である。オカミによる規制によって科技イノベーションにブレーキを掛けるのは、結局、国民の損になるので、好い加減やめたらどうか?もちろん規制官庁側にも道理がある話なので、文科省は岩盤に猛チャージしないといけない。また、軍事と学術の関係(特にデュアルユース問題)については、中間まとめには記述がないが、あらゆる先端技術で米・中ほかに遅れを取る恐れが生じており、スルーして国家の命運を誤らぬよう、心して検討し、最終版には記述してもらいたい。

 

2019年10月22日 (火)

東京2020のボランティアは「私が輝く」が動機で良いのか?

東京2020(オリンピック・パラリンピック)のField CastとCity Castの共通研修が進められている。ボランティアに配布されている冊子は182ページもあり、中身はなかなかよくできているが、冒頭部分に記されている「私は輝く」という動機づけに当たる短文は、かなり宗教がかった内容になっている。簡単にまとめると、自分が楽しむことを入り口とし、そこから自分の内面が変化し、他者との積極的な連帯が生まれ、それが集合して世界と未来を変えるというストーリーになっている。

私は、東京2020を契機に、年齢を重ねて他人に言えるほどのボランティア経験もないと恥をかく時代が到来すると予感している。その意味で、東京2020のCastを務めることは、自分にとって心の資産になるという打算がある。基本的には奉仕活動であっても、損得勘定を心の中に持っているのが人間の性である。仏教でも、功徳を積むのは、回りまわって自分のためでもあるという理屈を説いている。「私は輝く」は、これまでのボランティア経験者からの意見が反映されているらしい。しかし、楽しむことを表面に出すことで、自己犠牲を求める当たり前の裏側を故意に隠しているようで、私には腑に落ちない。浦安の遊園地の従業員(この人たちもCastと呼称されているのは偶然ではなさそう)を擬制しているのかもしれない。このような自己本位のフィクションは、今の世の人たちを動かすものだろうか?ハロウィーンで渋谷のスクランブル交差点に集まる人と同じように、何か起きている現場に行って楽しさを味わいたいという浮ついた動機で、東京2020の運営の一翼をきちんと担うことが可能なのだろうか?

歴史に残る感動を国民に残してくれたラグビーワールドカップの日本代表からは、One Teamとして強くなるために、個人個人は多くを犠牲にしてきたという声が聴かれた。その苦労も、4勝を上げた結果、社会からの絶賛、ラグビーファンの急増で報いられたという思いを語っている。犠牲という言葉は、松任谷由実さんのラグビーをテーマにした楽曲の歌詞に影響されているのかもしれない。私は、自分のためだけに100%の頑張りができる人間はいないと思っている。何かを実現するために、誰か別の人のために、ひたすら努力をして、それが達成されたとき、感謝や称賛の形で、承認欲求が満たされるということになる。ボランティアも、恐らく、東京2020を通じて、多くの人々に感謝されることで、すべての自己犠牲が報われたと感じることができたときに、真の楽しさを感じることができるだろう。「あなたが適切に対応してくれて助かりました」「おかげさまで大変楽しく過ごせました」「どうもありがとうございました」の声を聴きたいから、ボランティアに参加するという方が、数段分かりやすい。承認欲求を満たすためにというと、自己本位の心理の裏側を突っついているようで、気分を害されると心配したのかもしれない。あるいは、奉仕の結果が感謝に結びつかないことを恐れたのかもしれない。しかし、自分が最高に楽しいと感じるのは、他者が自分の貢献を高く評価してくれた時である。したがって、さあ自分も率先して楽しみましょうという動機づけは、嘘くさいと言わざるを得ない。

大会を成功させるためには、ボランティアの自己犠牲が必要であり、宗教施設の建設や難行苦行のように、参加する=「私は輝く」と思わせれば、肉体的に苦しくても「楽しい」と感じさせることができるというのは、新興宗教のフィクションに似ている。この魔法に、ボランティアの多くが、かかり続けていられるかは、かなり疑問である。生活の必要から労働の対価を求めざるを得ない貧困層は、ボランティアどころではなかろう。共通研修に来ている人たちは、首都圏に住んでいる社会的には恵まれた人たちである。自分に余裕がある人間として、今後の人生でも自信を持てるように、この機会にボランティアの一つもやっておきましょうというような呼びかけが相応しいのではなかろうか?

もっとも、ボランティア活動について、8万人もの動機を統一する必要もない。結局、一人一人が大人として、自分で腑に落ちる動機を見つければよい。私なら、他人に言えるボランティア経験という資産を得るとともに、東京2020以降の下り坂が予想される日本を自他共栄の精神で乗り切っていくスタートラインにするといったところである。実際、単に「楽しむ」というような動機で参加する人は少ないのではないか?自分が楽しむことを入り口にすると、どうしても浅薄な動機づけになってしまう。奉仕の精神で任務を全うし、最後に承認欲求を満たすことができて、自分も心から東京2020を楽しんだという思い出ができれば、理想的だろう。もしも、「私は輝く」が各自に考えさせる目的で、わざと違和感を喚起するものだったとすれば、制作に従事しただろう広告代理店の行動心理学の応用技術は侮れない。大会ボランティアの一人として、お釈迦様の手の中で踊らされたのなら、人の悪い冊子を制作させた組織委員会へ苦情を言うことにしよう。

最後に、共通研修の会場となったオリンピック記念青少年総合センターについて述べておきたい。研修の1つのパートは、ダイバーシティとインクルージョンがテーマになっており、車椅子の講師の方が担当していたが、会場のステージに上がれるスロープはなかった。また、客席裏の登り口も階段のみであった。特に、「オリンピック記念」と称する以上、このような不備は絶対的欠陥と認識すべきである。インクルージョンへの配慮がない施設で、インクルージョンを考えさせる研修を行うのは、どうにも笑えない漫画である。「オリンピック記念」の威信をかけて、今年中に施設を直してもらいたい。所管官庁である文科省も適切にフォローすべきだろう。

 

2019年10月16日 (水)

大学に行っても意味はないのか?

「大学なんか行っても意味はない?」(ブライアン・カプラン著、みすず書房)という刺激的なタイトルの本を読んだ。サブタイトルに、「教育反対の経済学」とも記されている。高等教育に要する費用が高額になりすぎ、進学した者の人生の選択の幅を狭め、進学できない者には経済格差が一層拡大する原因を作っているという認識が社会に広く共有されている。大学卒業という選抜機能を別にすれば、社会における職業に必要な価値を付与していないとの大学教育への懐疑的な見方が、学問の側から出てきても不思議ではない。ただ、大学教授という立場の人が、あからさまに、大学教育の付加価値を否定し、国家から切り離して公財政支出をやめる方向を示唆しているのだから、何とも穏やかではない。

この著者は、幼稚園時代に先生の教育指導に対して強い疑問を持ったというから、きっと並の人物ではなかろうが、私のような平均的な人間にとっても、大学という場に時間と費用をつぎ込んで、本当に、どんな付加価値を得たのだろうかと疑問に思うときがある。もっと効率的な学修・訓練方法がありうるのではないか、教育機関としての大学をより合理的な形態に改革できないものだろうかと考える人は、決して少なくない。それらの多くは、一筋の光明を、例えばミネルバ大学のようなオンライン教育に見るのだが、著者はそうした改革による大学の再生にも、否定的な見解を述べている。これでは、大学が気の毒だと感じるほど、大学を見捨てようとする立場のようである。悲観を通り越して、絶望だということなのだろう。

公財政支出を削減されれば、私学を含めて大学の経営維持は極めて難しいので、今の大学教授という職もかなりの部分が消滅するだろう。当然のことながら自爆的な内容で、教授の生きる道がなくなる政策提言に賛同する大学教授は稀だろう。恐らく、大半の大学人からは、悪くすれば袋叩きにあう、ないし少なくとも冷やかに無視される。しかしながら、大学という教育機関が、社会における種々の職業に必要な能力育成にどれほど貢献しているのだろうか?こうした疑問符は、我が国にも広く共有されているものである。大学のカリキュラムが、社会的が求める知識・技能に応えるのではなく、教える側が選択した研究領域の成果をランダムに提供するに過ぎないものとなっているという昔からある批判である。学問分野によっては、実務に直結する法学や産業を支える工学のような実用的な存在もあり、すべてが浮世離れした内容ではないが、学問を学問として楽しむことを大学の本質だと認めてもらえなければ、職業訓練校のような傾向にどんどんと変質していくことになりかねない。大学にも反省すべき点はあるのだが・・・。

明治期に近代化を担う科学技術の体系を輸入するために、分野ごとに高等教育機関が設立され、それがのちに大学という形にまとめられた。その後、私学にも門戸開放され、大学は多様化し、規模拡大し、大衆化が進んだ。平成の世には、機能分化が進み、研究を反映した教育内容と産業界が期待する教育内容が乖離していることへの批判が高まり、大学側もPBLやアクティブラーニング等の手法、資格取得への支援、キャリア教育の強化などで、その隙間を埋める努力をしてきた。大学の宿命だが、教養志向と就職志向のせめぎあいの中で、経営方針としては、学納金を負担する保護者の望む後者に優位を置かざるを得ない状況に至っている。国立大学の人社系の規模縮小というような方針(誤解ないし説明不足という言い訳で事実上軌道修正)もそうした文脈から理解可能である。

この本が原因ではないが、学問の府としての大学は世界中で危機を迎えている。大学人はしばしば国民=大衆に分かるような言葉で大学の社会的有用性を語っているが、恐らく蒙昧な大衆には理解してもらえないと半ば諦めている。それでも、自由な知的活動・訓練の場を守るために、国家が大学を支える意義を発信し続けるしかあるまい。大学が機能しなければ、知的活動を担う人材は養成されず、優れた人材が出会うこともなく、選ばれた人材が人生を通じて知的活動を継続できない。稀には企業が全面支援してノーベル賞級の研究成果を生み出すことはあっても、これを一般化することは無理である。

一方で、大学という存在も変化せざるを得ない。第1に、大学の原点ともいうべき、自由学芸7科(文法、修辞学、弁証論(論理学)、算術、天文学、幾何学、音楽学)に立ち返って、21世紀の教養の基盤を再構築すべきだろう。この部分は、中世以来、大学の専売特許であり、この上に、実用・専門の知識・技能としての分野ごとの体系が学べるようにシステム化するのである。この実用・専門の学修システムのうち、高度な内容は大学院で提供すべきだが、すべてを大学で独占する必要はない。モジュール化された知識・技能は、TACのような教育機関で効率的に身につけることが理に適っている。

第2に、大学は、学問の創造の場であり、学問の徒による相互作用の場である特色を生かして、付加価値の向上を目指す新たな学修システムを提案することに、努力していく必要がある。私としては、ミネルバ大学のような実験的な取り組みが増えてもらいたい。

第3に、実用・専門のモジュール化された体系のうち、高度な内容については、社会人対象を含めて、大学院の機能として強化していく必要がある。再教育によって、AI時代を渡っていく人材を再生することが、社会への最大の貢献になるからである。大学が役に立つことを示せれば、批判の声を封じることが可能になる。今後、人材再生の機能が税収維持の観点から国家にとっては不可欠になるため、大学を含む高等教育への公財政支出を削減すれば自滅行為になる。教育反対の経済学を政策に反映すれば、長期的に国家自体が確実に衰退するだろう。やりたければ、日本以外のどこかの国で実験すればよい。その国の大学人は海外へ移住するだろう。そんな難民は日本で受け入れたらよい。

 

2019年10月 3日 (木)

なぜスコープの狭い高等学校教育に関する議論は役に立たないか?

中教審では、文科大臣の諮問を受け、ワーキンググループを設け、新しい時代の高等学校教育の在り方に関して議論が始まっている。このWGが担当する諮問事項は、簡単に言えば、普通科等の改革、文系・理系を超えた学び、定時制・通信制の改革、大学等との連携、個々の生徒に応じた指導の在り方の5つである。わざわざ「新しい時代の」という割には、スコープが狭すぎるという印象を強く持つ。「このままだと、日本に未来はないよね。」(ひろゆき著、洋泉社)というような本が出ている2019年である。なぜ未来がないのかは、この本を読んでもらうとして、強い危機感を持っているのは、ひろゆきさんのように時代の先読みに長けている人ばかりではない。経済同友会も「危機感なき茹でガエル日本」と表現している。アベノミクスの評価を含めて、今後の経済に関して楽観的なことを書いている本を見つけるのは至難の業の今日である。そんな危機ムードの中で、高等学校改革の方向を議論するWGのスコープは、聊か緩慢すぎるのではないか?

高等学校に関する課題としては、真っ先に、AIが高度に発達する社会における職業の変化にどう対応するかという点を意識せざるを得ない。いわばAIに負けない人材をどう作るかということだが、所得水準の高い雇用機会を得るには、少なくとも学部レベルの教育を受ける必要があろう。高等学校で学修は完結しないので、経済的に可能なら高等教育に進学した方が良いということになる。そこで、重点的に取り組むべきは、教育困難校の環境整備である。相対的貧困の自動再生産にならぬよう、然るべき職業に就いて社会的に自立することができるよう、教育支援を格段に充実させることが、今の社会政策としても極めて妥当である。にもかかわらず、この課題に何ら明確な言及がないのは、どうしたものだろう。教育困難校に通う生徒は、決して少数派ではなく、相当の厚みを持つ人材群である。何としても日本社会に貢献してもらいたい。就労人口は減少し、やむなく外国人の移民を受け入れる方向に、舵が切られつつある。しかし、モノの順序として、日本に生まれ育っている(勉強してこなかったから)学力成績が悪い高校生へのテコ入れが先だろう。いわゆる大学無償化の施策に関しては、制度設計の不備から相当部分が無駄金になる可能性が高いとは思うが、少子化対策として最貧困層への教育機会の保障に消費税増税の一部を充てようという安倍政権の着眼点には、正しいものがある。文科省は、その流れの中で、「新しい時代の」を構想していないのではないか?これでは、政権のハグレ者、厄介者になってしまう。官邸からもそう思われているかもしれない。

普通科の改革について言えば、より明確に、幾つかの類型に区分して、教育目標を分けることが、教育の質保証の観点からも有力だろう。上記の教育困難校への重点支援は、基礎教育重視型の学校として取り組むことが適当だと考える。教養重視型は、文系理系の枠を超え、大学との連携も強化し、受験勉強に埋没することなく、先の学修目標を持たせるものにすればよい。そうした類型は、真のエリート教育を志向することになる。また、専門領域特化型、職業体験重視型は、それぞれ、興味のある領域の知識・技能を強化する、キャリア教育によって必要な学問への興味を喚起するというような効果が期待できる。これ以外の類型も、学校の設置者の判断で作って良いだろうが、教育目標、達成方法、成果測定、フィードバックという流れについては、きちんと設計してもらいたい。文科大臣からの諮問に明記するのは避けたい気持ちがあったのかもしれないが、WGの検討が始まって、全国の高校が注目している以上、検討の方向性を暈したり、結論を先送りしたりするのは避けてもらいたい。高校で学修が完結する時代が去った以上、職業科以外だから普通科というような区分には全く意味がない。普通科の類型区分の議論を早く進めてもらいたい。

定時制・通信制の改革という問題の設定は、オンライン教育をどう取り入れていくかという点に集約した方が普遍的になる。大学レベルでは、放送大学があり、MOOCへの取り組みがある。高校からドロップアウトせざるを得なかった生徒が、通信制に入学するケースが増えている。それならば、放送大学付属高校(通信制)を作ればいいのではないか?かりに、そうしたオンライン教材が開発・活用されることになれば、全国の高校でも予習・補習その他で利用できる。必ずリアルな教育にも好影響があるだろう。また、高校レベルのオンライン教育の経験値が上がれば、大学や大学院レベルの教育への展開も視野に入ってくる。時間と地理の制約が緩和されれば、AI時代の課題とされる社会人の再教育、学位取得も促進しうる。オンライン教育には、大学、予備校、企業等からの講師も活用して、生徒の習熟度に合った内容で、数段階の授業が聴けるようにしたらよい。少子化対策の一環として、人生における結婚、出産、育児などに関する講話も入れたらよい。別の番組では、聊か荒れた高校時代を過ごした先輩にも、人生の話をしてもらうと良いだろう。ラジオの深夜放送の番組のように、生徒は興味をもって真剣に視聴すると思う。

最後に、スコープだけでなく、委員構成も狭い印象がある。多くが校長・教員では、「新しい時代の」高校に求められる課題は議論し切れない。意図的かは不明だが、北海道・東北・九州地域からの委員は含まれていない。また、国・公立大学の教授もいない。さらに、企業人もいない。この狭さが文科省の限界であり、教育界の限界である。こうした殻を破らないと、ひろゆきさんと同様に、若者からも、未来はないよねと言われるに違いない。

 

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