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2020年1月

2020年1月28日 (火)

SDGsの観点から大学の評価・格付けをしたらどうか?

昨年からSDGsに関する著作物の出版が急速に増えている。民間企業や地方自治体へのSDGsの普及が進んでいるためであろう。日経新聞が開催しているSDGsフォーラムも満員の盛況であった。この関心の盛り上がりは、世界的な金融の世界において、SDGs指標の活用が投資家の視野に入ってきていることも、大きな要因である。地方企業の価値評価をSDGsの観点から行って差別化を図ろうという新手法も、長野県などから始まっている。主要な企業や地方自治体の相当数が実践を開始したことについては、政府の旗振りが功を奏したのか、世界の潮流に乗り遅れないという経営者の防衛本能のなせる技かは詳らかではないが、2030年の目標達成への具体的な取り組みが始まっていることは確かである。しかし、学部学生の大半が席を置いている私立大学の多くは、SDGsに反応しているように見えない。経営陣にSDGsへの認識があるのかも相当怪しい。SDGsが定める17の目標が多数の専門分野に分割されるために、教授の数だけ専門店が並ぶショッピングモールのような大学の構造上、SDGsを取りまとめて推進する中核が存在しないことも、認識の低さの原因である。このままでは、企業や地方自治体に比して、意味のある取り組みが遅れ、社会的な落伍者になりかねない。政府におけるSDGsの推進役は、内閣府(地方自治体対応)、外務省(国連対応)、経済産業省(産業界対応)だろうが、大学という組織体を誘導するのは、文部科学省の役割になるだろう。しかし、今のところ、実質的に何の動きもない。東京2020大会の組織委員会のようなところでは、きちんとSDGsの観点からの計画を立案決定している。やらないわけにはいかない状況に追い込まれないと、何もしないのだろうか?意識の高い自治体の小中高校では、SDGsを学習・実践する機会は多くなっているにも拘らず、大学業界だけが取り残される懸念がある。

大学という組織体で、SDGsへの取り組みを検討する際には、教育研究機関という事業体のインプット、アウトプット、内部のオペレーションの3領域に分けて考えると分かりやすい。

第1に、インプットについては、調達という業務に際して、契約先の選択に、SDGsの観点を加味することが考えられる。電力さえも調達先が選択可能な時代になっており、再生可能エネルギーの割合が高い企業を選択するなどが考えられる。また、長野県が推進しているようなSDGsへの優れた取り組みを実践する企業への認証制度を活用して、調達の際に有利な扱いをすることも考えられる。大学が直接調達する物品・サービスに限らず、学生・保護者が大学やその関連会社の斡旋で購入するものを含めれば、大規模大学であれば、軽く億単位の桁になるので、調達を通じてSDGsを推進することは、相当の影響力になる。

第2に、アウトプットについては、大学全体の教育成果として、SDGsの観点を卒業生の種々の社会的行動に反映させることが最も重要である。また、授業科目以外に、学生の課外活動として、貧困、飢餓、気候変動、海の環境保全などに関連するボランティア活動の実践に取り組むことを支援することも考えられる。その際、地方自治体との連携も視野に入れると良いだろう。研究面では、成果を社会的イノベーションに結びつける大学発のスタートアップが生まれれば素晴らしい。そこまで行かないまでも、SDGsの実現に貢献するため、産学連携による研究成果の社会的還元に、大学全体として取り組むことが求められる。さらに、地方自治体に協力して、例えば防災等の専門的知識をまちづくりに生かすという取り組みも考えられる。

第3に、オペレーションの面では、テレワークの推進など働く場としての環境改善、食品廃棄の削減、3Rの観点からの循環型経済の実現、ジェンダー平等への行動計画の策定など、幅広い取り組みが考えられる。特に、ジェンダーや循環型経済に関しては、気候変動とともに、我が国は全体として最低評価となっており、目標達成が厳しい状況の課題となっているため、大学という組織体としても、企業における取り組みを参照しつつ、積極的な改革への意識を持たなければならないだろう。

大学に関する評価は、メディア等により、種々の軸で行われているが、是非SDGsという軸も取り入れることを検討してもらいたい。文部科学省自身が評価を行うことは無用だが、評価基準の策定などを施策化することは可能だろう。内閣府がやっているように、意欲的な計画を策定している大学をモデルとして選定することも考えられる。2030年のゴールに向けて、SDGsは啓発から実践のフェーズに入っているので、実践する大学をどう増やしていくか、どう差別化するかを考えたらよい。SDGsから大学が取り残されていては、我が国の目標達成は覚束ない。ただ、現場の感覚としては、このまま放置しておいて、大学自身がSDGsに目の色を変えるようには決してならない。残された時間は限られている。

2020年1月17日 (金)

U23サッカー日本代表の1次リーグ敗退を教育政策関係者が批判できるか?

U23サッカー日本代表のアジア選手権での1次リーグ敗退は、サッカーファンには大きな衝撃である。東京オリンピックのアジア予選も兼ねていたわけだから、理論的には、日本はオリンピックに出場する実力はないということになる。スポーツはある意味で残酷であり、言い訳はあろうが、監督・コーチ、選手諸君には、世間の冷たい目が待っている。批判されているうちは、まだましで、サッカーには無関心、もう期待しないという人が増える恐れもある。名誉挽回には、本番までに、体制を立て直して、好成績を残してもらうしかない。

さて、サッカー男子を引き合いに出したのは、苅谷剛彦「追いついた近代 消えた近代」(岩波書店)第7章「外在する『近代』の消失と日本の迷走」の中で、鋭く指摘されている教育政策の失敗の構造に関する論考を読んで、こうした教育政策で社会を振り回した人たちは、スポーツと違って、決して失敗の責任を取ることはないだろうと感じたからである。

苅谷教授によれば、新しい経済成長主義である新自由主義の教育への参入が成功しない理由は、「政策立案がエセ演繹型思考と、浮遊する主体の欠如理論によっているから」である。また、「日本型新自由主義の教育への影響は、~国家の教育への関与を弱めることなく、営利企業との共犯関係をつくりだしている。」とも述べている。また、グローバル人材の育成から学習指導要領の改訂まで、「先進の外来の近代的制度は、いまだ日本には存在しないという欠如を前提に」した政策が展開されてきているが、臨教審が活動した1980年代に当たるキャッチアップ型近代化終焉の「その後」に、「欠如理論の変節を強化したのが、エセ演繹的思考と呼ぶ政策立案志向の支配で」あったとしている。

最近、大学関係者が、文部科学省に対して、大学への介入の度が過ぎるとの不満を強く持つようになっているのも、一方で、新自由主義的な方針の説明をしながら、規制緩和は不十分なままに止め、他方で、経済界(官邸)からの要請を踏まえる形で、官僚統制=規制強化を図っているからに他ならない。しかも、教育分野への財政支出の抑制は既定路線となっており、いかに大学現場が努力しようとも、如何ともしがたい財源不足で、教育研究の国際競争力が高まる条件は整わない。個人から法人まで自己責任論の下に、必ずしも公平公正とは言えない競争にさらされている。苅谷教授のいうように、大学を巡るあらゆる施策は、こうした構造の中で立案され、結果として失敗、又は中途半端な成果に終わる。そして、誰も責任を取らない。再び、日本の教育には○○が欠けているのが問題だとする欠如理論から、エビデンスのない手法が、いつの間にか施策として打ち出され、永遠の空転が続く。

大学改革が終わらないのも、目標を含めて計画全体が不明確、裏付けとなる手段(予算を含む)が不十分なことに加えて、そもそも施策=作戦自体が、十分な根拠に基づくことなく策定されているからである。苅谷教授は、私たちが現場で感じている官僚主導による「失敗の本質」を理論的に明確にしてくれている。もう少し、たくさんの大学関係者に理解できるような平易な記述にしてほしいとは思うが、読解力に自信がある人には、ぜひ一読をお勧めしたい。

日本代表には、本番のオリンピックという試練の場が待っている。教育政策関係者にも、そうした場があると良い。そして、責任の所在が国民の目の前に明らかになることが必要であろう。そうした機会がなければ、永遠の空転が止まらないからである。

 

2020年1月14日 (火)

なぜ文科省への私学からの批判が激しくなっているのか?

私立学校法改正に伴う学校法人の寄付行為改正の手続きが進められているが、学校法人に対して他の法人類型の制度を押し付けるような法改正に対して、私学の経営者たちは、反発を隠そうとしていない。私学の独自性を否定されているとまで表現する向きもある。また、文部科学省は、結局のところ、地方及び小規模の私立大学から切り捨てる方針なのではないかと私学関係者は危惧している。財政支援は抑制する一方、統治ばかり強化するとして、文部科学省への不満は高まるばかりである。さらに、修学支援措置の対象機関となる要件に対しても不満は強い。学生への個人補助であるにもかかわらず、学生と関係がない要件を持ち出して、私学の自主性に介入することへの不当性を指摘する声は大きくなっている。この件では、既存の個人補助との整合性に不安を述べる関係者も多い。教育無償化が修学支援に変質し、既存制度との整合性を示さないままに、当面は既存制度も維持という程度でみなが納得するわけがない。文部科学省には、官僚=テクノクラートとしての信用もないのである。加えて、国公私立の役割見直しは店ざらしのままで、やるべきことを先送りし、やるべきでないことばかり急いでいる国=文部科学省への批判は留まることを知らない。

文部科学省は、高等教育の規模について、中教審においても明確な指標を示せていない。人口減少⇒経営環境の悪化⇒競争の激化⇒優勝劣敗で統廃合⇒大学数・入学定員の減少という暗黙のシナリオは意識せざるを得ないが、国立を含めて、正々堂々と2040年までの縮小目標を提示すべきではなかったのか?こうした重要な議論を避けていながら、官邸主導で決まってしまった新規施策だけは、命令通りに何も考えず実施しようとするのでは、高等教育の8割を担う私学からは迷惑以外の何物でもない。人口減少期に入っているために、私学経営は、未来が見通せず余裕が持てなくなっている。私財を投げ打って法人を設立しているので、破綻すれば、経営者には地位も財産も残らない。もっとも、国立大学からも、同様に好意的な評価を聴かない。大学業界からの不審の眼を、文部科学省の幹部はどう考えているのだろうか?

国連が推進するSDGs(持続的開発目標)の17ゴールのうち、日本は、教育分野では達成度合いが高いとされているが、経営環境の悪い地方及び小規模の大学を他と一律に扱うことによって、事実上切り捨てれば、教育機会の格差は拡大に向かう。当初は教育無償化がうたわれていた修学支援の個人補助の制度設計・配分にも、一工夫あってよいのではないか?私の懸念が外れなければ、この新規施策によって、費用対効果の観点から、歳出の無駄が積み上がっていく。そうなれば、国民からの痛烈な批判(文部科学省無用論)は避けられないのではないか?私学を始めとする大学業界は、既に文部科学省を当事者能力の面で見限っていると思うが、このままでは組織的に敵視するようになる日も近い。果たして、霞が関で影が薄い文部科学省は、大学からの四面楚歌でやっていけるのだろうか?

 

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