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2020年1月17日 (金)

U23サッカー日本代表の1次リーグ敗退を教育政策関係者が批判できるか?

U23サッカー日本代表のアジア選手権での1次リーグ敗退は、サッカーファンには大きな衝撃である。東京オリンピックのアジア予選も兼ねていたわけだから、理論的には、日本はオリンピックに出場する実力はないということになる。スポーツはある意味で残酷であり、言い訳はあろうが、監督・コーチ、選手諸君には、世間の冷たい目が待っている。批判されているうちは、まだましで、サッカーには無関心、もう期待しないという人が増える恐れもある。名誉挽回には、本番までに、体制を立て直して、好成績を残してもらうしかない。

さて、サッカー男子を引き合いに出したのは、苅谷剛彦「追いついた近代 消えた近代」(岩波書店)第7章「外在する『近代』の消失と日本の迷走」の中で、鋭く指摘されている教育政策の失敗の構造に関する論考を読んで、こうした教育政策で社会を振り回した人たちは、スポーツと違って、決して失敗の責任を取ることはないだろうと感じたからである。

苅谷教授によれば、新しい経済成長主義である新自由主義の教育への参入が成功しない理由は、「政策立案がエセ演繹型思考と、浮遊する主体の欠如理論によっているから」である。また、「日本型新自由主義の教育への影響は、~国家の教育への関与を弱めることなく、営利企業との共犯関係をつくりだしている。」とも述べている。また、グローバル人材の育成から学習指導要領の改訂まで、「先進の外来の近代的制度は、いまだ日本には存在しないという欠如を前提に」した政策が展開されてきているが、臨教審が活動した1980年代に当たるキャッチアップ型近代化終焉の「その後」に、「欠如理論の変節を強化したのが、エセ演繹的思考と呼ぶ政策立案志向の支配で」あったとしている。

最近、大学関係者が、文部科学省に対して、大学への介入の度が過ぎるとの不満を強く持つようになっているのも、一方で、新自由主義的な方針の説明をしながら、規制緩和は不十分なままに止め、他方で、経済界(官邸)からの要請を踏まえる形で、官僚統制=規制強化を図っているからに他ならない。しかも、教育分野への財政支出の抑制は既定路線となっており、いかに大学現場が努力しようとも、如何ともしがたい財源不足で、教育研究の国際競争力が高まる条件は整わない。個人から法人まで自己責任論の下に、必ずしも公平公正とは言えない競争にさらされている。苅谷教授のいうように、大学を巡るあらゆる施策は、こうした構造の中で立案され、結果として失敗、又は中途半端な成果に終わる。そして、誰も責任を取らない。再び、日本の教育には○○が欠けているのが問題だとする欠如理論から、エビデンスのない手法が、いつの間にか施策として打ち出され、永遠の空転が続く。

大学改革が終わらないのも、目標を含めて計画全体が不明確、裏付けとなる手段(予算を含む)が不十分なことに加えて、そもそも施策=作戦自体が、十分な根拠に基づくことなく策定されているからである。苅谷教授は、私たちが現場で感じている官僚主導による「失敗の本質」を理論的に明確にしてくれている。もう少し、たくさんの大学関係者に理解できるような平易な記述にしてほしいとは思うが、読解力に自信がある人には、ぜひ一読をお勧めしたい。

日本代表には、本番のオリンピックという試練の場が待っている。教育政策関係者にも、そうした場があると良い。そして、責任の所在が国民の目の前に明らかになることが必要であろう。そうした機会がなければ、永遠の空転が止まらないからである。

 

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