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2020年3月

2020年3月24日 (火)

なぜリスクの伝達にデータもサイエンスもないのか?

コロナ禍への対応に、世界各国が苦慮しているのは間違いない。自己宣伝ばかり聞かされるが、どの首脳がうまくやっているのか、今のところは不明である。3月中旬以降、極端な方策を導入した国は、それまでの対応に致命的な失敗をしたということだろう。日本の中も、感染者の発表が県単位で行われることから、まだ対岸の火事だと感じていた人たちも多かろう。同じ県でも、旧藩が異なれば、自分のことだとは思わないのは、無理からぬ面もある。この連休中に「県境を越えないで」という要請が知事によってなされたが、まともに受け取る方がバカなのかもしれない。

思い起こせば、始めは中国湖北省やクルーズ船の問題に過ぎなかったが、3月初めにいきなり全国の小中高校を閉鎖するという政府の要請が発せられて、危機を実感できないまま、ドラッグストアにマスクや紙製品を買いに走るはめになった。WHOによれば、マスクには自分の感染予防の効果は期待できないというが、しないで通勤電車に乗るのはマナー違反=人間失格と見なされかねない。人間扱いされたいがために、マスクをするというのは、実に日本人らしい行為だと感じる。

ただ、専門家の解説を無視するわけではないが、多くがマスクをしていることで、感染者数が爆発的に増加するには至っていないのかもしれない。スペインあたりからの帰国者が、飛行機や新幹線で移動したはずだが、乗客がクラスター感染になったという話が出ていないのは、手洗い以外にマスクの着用が何らかの意味を持ったのかもしれない。

しかし、それにしても、マスコミに出てくる専門家から、データをきちんと示して、今後の感染拡大の予測、種々の対策による効果に関する説明がないのには、摩訶不思議な印象を禁じ得ないでいる。彼らは、本当に、感染症対策の専門家なのだろうか?リスクの解説を文学的表現で行うなら、文字通り無知な人を分かったような気にさせることはできても、普通の人たちを、適切なリスク回避行動に導くことは、期待できないだろう。

大規模な大学では、卒業式と入学式を取りやめるか、ごく縮小して行ったところが大半だが、高校以下の学校の授業を犠牲にしても感染予防に取り組む中で、数千人規模以上の集会はできるはずもないから当然である。ただ、3月下旬になって、新学期から、学校の授業を再開する方針が、文科省から示された。私自身は、国内の感染者数データの変化を踏まえれば、教職員、児童生徒の感染のリスクを考慮しても、コロナとの戦いは長期戦になるがゆえに、学校はできる限り通常通りに活動すべきだと考えていたが、官邸からの要請と文科省の新方針の判断根拠が全く不明なので、ここはぜひ、今後のリスクに関して、本当の専門家の解説を聞きたいと思う。

また、大学に関しては、全面的にオンライン授業を実施するという例もあるが、そうした準備が整っている大学は少数にとどまる。最近、テレワークの拡大の影響で、Zoomという遠隔会議システムの利用が急増して、以前に比べて、安定した状態で通信できなくなっている。恐らく回線の混雑が原因だろうが、大規模大学が一斉に、オンライン授業に走ったら、通信の急増でパンクするかもしれない。加えて、就職活動の情報収集、部活動への参加、図書館等の利用など、大学に行く必要がある場面もある。完全に大学という施設の利用が不要になるはずはない。大規模大学になれば、授業日であれば、キャンパスには3000人に上る学生が来ているので、週末を除いて毎日、大きなイベントをやっているようなものである。こうしたリスクをきちんシミュレーションして、推計データをもとに語るべきである。

文科省は、安倍政権下で、大学入試改革(民間英語試験の活用、記述式回答の導入=ギリギリの段階で撤回された)や就学支援措置(=国の施策として成立していないレベルとの厳しい批判がある)でも、根拠データを示さずに突き進み、惨めな結末を招いた苦い経験がある。反省するならば、今度こそ、データとサイエンスで詰めた上で、判断基準を明示して方針を示すべきだろう。検討のプロセスも詳らかではないが、学校再開ありきで、考慮すべきリスクを軽視したとすれば、その責任は非常に重い。その結果、3月中旬以降の欧州のようになることはないという根拠があるならば、今、きちんと示してもらいたい。

少なくとも、リスクについて、保護者を含む学校関係者に、理解可能な形で伝えるべきではないか?かりに児童生徒に感染者が出た場合、学級全員の検査ができる体制は、その地域にあるのだろうか?あるいは、濃厚接触の範囲が、中高校では、学年、学校全体に拡大するかもしれない。大学に至っては、感染者とキャンパスで接触した者が千人単位になってもおかしくない。そうした事態への対処を想定しているのだろうか?大学当局は、可能な限りの努力はするだろうが、外部から無意識にウィルスを持ち込まれることを防ぐことは不可能であり、リスクをゼロには絶対にできない。最終的には、検査以上に、重篤化させないよう医療体制を構築してもらうことが、こどもの安全安心にとって最重要である。

決め手となるワクチン開発・普及の想定時期まで、地域ごとに、重篤化しつつある感染者数を、受け入れ可能なベッド数(増強するとしての上限)の範囲に抑えるために、合理性のある措置であれば、国民は、学校閉鎖でも外出禁止でも、一定の期間は、理性をもって受け入れるだろう。その作戦が不明確で、今はどうのこうのと文学的表現で語っても、コロナ慣れ(飽き)してしまったために、要請に従って自粛をしない者がいてもおかしくない。既に、そんな言説には危機感を感じられないからである。賢者を集めて、冷厳なデータとサイエンスに基づく作戦を樹立して、理路整然と解説して、国民の理性に訴えるしかない。経済対策を含む国家予算を組むのであれば、低所得者の生活支援のほか、地域の医療体制の臨時的強化措置を最優先してもらいたい。

コロナによる感染も死者も、じわじわと確実に増えている。しかし、今日も、渋谷の街は昼夜賑わっている。もしも、検査対象に入っていない感染者が、街に入っていれば、2週間のうちに爆発的な感染拡大が起こっても不思議ではない。欧州に比べて、日本はマスクこそ不足気味だが、人々の行動は、まだ暢気である。それは、データとサイエンスで語らない政治家や専門家のせいではないか?最近、テレビで顔を見るたびに、いい加減にしてもらいたいと怒りを覚えるのは、私だけであろうか?

 

 

 

 

 

 

2020年3月12日 (木)

なぜコロナ禍が学校システム改革の機会になるのか?

「瀬戸際」だとされた2週間が過ぎても、当然ながら感染拡大は続いている。検査の円滑化が進めば、データに表れる感染者数は更に増加するだろう。コロナ禍への政府の対応には頷けない点も多々あるが、この機会に社会システムとしての学校について再考し、コロナ禍を乗り越える基盤を構築することを望みたい。学校や関係団体はもちろんのこと、文科省や教育委員会でも、恐らく目前の予定の変更判断だけで手いっぱいに陥っているのではないか?それでは困るのである。

WHOがようやくパンデミックと宣言したコロナ禍は、今後、長期化するものと考えられる。コロナ発祥の地ともいうべき中国では「抑え込んだ」ことになっているが、人々の移動を極端に制限する措置を解除すれば、再び感染が拡大するだろう。中国のような政治体制を持たない欧米や日本では、戒厳令のような外出禁止措置は現実的ではない。したがって、あらゆる社会システムを停止状態に置くことはできない。学校における教育活動もその一つである。

4月になれば、幼稚園から大学院まで、学校というシステムを普段通りに動かさないと、幅広い年齢層の学習に影響が広がる。大学・大学院は、年間15週×2期の授業を確保すれば、単位を与え、学位を授与することは可能だが、それでも、4月下旬には授業をスタートして、途切れることなく7月下旬まで前期の授業を続ける必要がある。他の学校類型は、これほど授業のスタートを遅らせることは難しい。しかし、漫然と学校の授業を始めれば、コロナ禍による感染が学校で拡大しかねない。

簡単に図式化すれば、学習保証を取るか、感染抑制を取るかの2択である。科学的根拠が全く示されなかった「瀬戸際」の措置を繰り返すことは基本的にありえないと思うが、感染拡大の状況によっては、学校が部分的かつ一時的に機能を停止せざるを得ない場面も想定しておかなければならない。現場では、一般企業で作っているBCP(事業継続計画)に相当するものを、可能な限り準備しておくべきだろう。一方、社会全体として考えておくべき事柄がある。そのポイントは、次のようなことである。

第1に、大学等では在宅での学習をいかに保証するかである。遠隔授業やe-learningシステムによる代替が想定される。これについては、ある程度経験を有している大学等もあるが、コロナ禍を契機により広く普及させることが望まれる。既に、基盤となるシステムを提供している企業があるので、個々の大学等の判断で契約して、授業コンテンツをデジタルアーカイブ化する動きも水面下で広がっていくだろう。本来ならば、文科省(又は総務省)による共通基盤の構築を期待したいところだが、そこまで頭が回らないかもしれない。高校以下の学校についても、標準的な授業配信のシステムを整備して、全国の力量ある教員が作成する授業コンテンツを学年・科目ごとに順次収録して提供すれば、学校が休業することによる学習の遅れへの不安を払しょくできる。

第2に、学校の概念の見直しである。簡単にまとめれば、すべての児童生徒に一律の機会を提供するというのではなく、学習者側の視点で自ら選択するサービスの提供を行うという方向への転換である。例えば、在宅学習の環境がない者には、ICT利用のために積極的に登校を促すのも一案だろう。また、家庭の事情で昼食が用意できない小学生には、登校させて学校給食を提供すればよい。その前後の時間で、学習指導もできるだろう。さらに、学童保育に頼らざるを得ない家庭の子供は、勉強も見てやりながら、可能な限り学校で預かる方が安全安心である。すなわち学校で対応できるメニューを示して、学校での感染リスクも考慮してもらいつつ、保護者の希望によってメニューから選択することを可とするという考え方に変更するのである。マスコミを通じて流通している感染者情報は非常に限られているので、地方自治体が保健所を通じて地域のリスクを把握した上で、学校という組織の事業継続について、オール・オア・ナッシングではなく、柔軟にメニュー方式で運用できるようにする方が、コロナ禍への長期的な対応という意味で現実的である。近代化の過程で一律主義に凝り固まった学校観が、この際転換するのは、社会の進歩にとって望ましい。

第3に、学校機能の見直しである。学校は設置基準等によって、教員配置や施設設備について細かく規定されている。学校という施設に学習者を収容して教員から一斉に授業を受けるということが基準等の前提とされている。こうした教育のやり方が相対化されれば、設置基準等による縛りも相対化しうることになる。世界ではICTの活用により教育手法が既に革新されつつあり、我が国の設置基準等の縛りは障害になっている。コロナ禍への対応として、地域の実情に応じて、低学年だけは受け入れるとか、選択的に短縮授業にするとか、在宅学習の成果を個別指導するとか、学校機能の使い方には多様性があって良いだろう。また、e-learningを導入することで、学校機能の見直しが具体的に進むなら、今回のコロナ禍は、災い転じて福となるだろう。それに伴って、教員の役割についても、学習者への支援を重視するという方向で見直すことになるだろう。

以上のような観点から、コロナ禍という危機への対応については、学校というシステムを、根本的に変革する好機とすべく構想することが望ましい。それを政府に主導してほしい気持ちはあるが、先進的な私立学校や教育委員会が独自の工夫で先導役を担うというシナリオが現実的かもしれない。ただし、学校教育活動で1人も感染させてはならないというような非現実的な条件設定をしたのでは、社会システムとしての学校は必然的に機能停止に陥ることになる。文化・スポーツ等を観る機会、種々の社交の場への参加が、「自粛」という言葉で次々に制約されている。人々がストレスを溜めながら、出口の見えない日々を過ごすのは、誠に残念なことである。その結果としての経済的利益の喪失も、無視できない規模になっている。冷静に感染症のリスク管理をしながら、学校という社会システムが、変化する国民のニーズを踏まえて生まれ変わることを強く期待したい。

 

 

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