« 危機管理ができない国はオリンピック・パラリンピックを開催できるのか? | トップページ | なぜリスクの伝達にデータもサイエンスもないのか? »

2020年3月12日 (木)

なぜコロナ禍が学校システム改革の機会になるのか?

「瀬戸際」だとされた2週間が過ぎても、当然ながら感染拡大は続いている。検査の円滑化が進めば、データに表れる感染者数は更に増加するだろう。コロナ禍への政府の対応には頷けない点も多々あるが、この機会に社会システムとしての学校について再考し、コロナ禍を乗り越える基盤を構築することを望みたい。学校や関係団体はもちろんのこと、文科省や教育委員会でも、恐らく目前の予定の変更判断だけで手いっぱいに陥っているのではないか?それでは困るのである。

WHOがようやくパンデミックと宣言したコロナ禍は、今後、長期化するものと考えられる。コロナ発祥の地ともいうべき中国では「抑え込んだ」ことになっているが、人々の移動を極端に制限する措置を解除すれば、再び感染が拡大するだろう。中国のような政治体制を持たない欧米や日本では、戒厳令のような外出禁止措置は現実的ではない。したがって、あらゆる社会システムを停止状態に置くことはできない。学校における教育活動もその一つである。

4月になれば、幼稚園から大学院まで、学校というシステムを普段通りに動かさないと、幅広い年齢層の学習に影響が広がる。大学・大学院は、年間15週×2期の授業を確保すれば、単位を与え、学位を授与することは可能だが、それでも、4月下旬には授業をスタートして、途切れることなく7月下旬まで前期の授業を続ける必要がある。他の学校類型は、これほど授業のスタートを遅らせることは難しい。しかし、漫然と学校の授業を始めれば、コロナ禍による感染が学校で拡大しかねない。

簡単に図式化すれば、学習保証を取るか、感染抑制を取るかの2択である。科学的根拠が全く示されなかった「瀬戸際」の措置を繰り返すことは基本的にありえないと思うが、感染拡大の状況によっては、学校が部分的かつ一時的に機能を停止せざるを得ない場面も想定しておかなければならない。現場では、一般企業で作っているBCP(事業継続計画)に相当するものを、可能な限り準備しておくべきだろう。一方、社会全体として考えておくべき事柄がある。そのポイントは、次のようなことである。

第1に、大学等では在宅での学習をいかに保証するかである。遠隔授業やe-learningシステムによる代替が想定される。これについては、ある程度経験を有している大学等もあるが、コロナ禍を契機により広く普及させることが望まれる。既に、基盤となるシステムを提供している企業があるので、個々の大学等の判断で契約して、授業コンテンツをデジタルアーカイブ化する動きも水面下で広がっていくだろう。本来ならば、文科省(又は総務省)による共通基盤の構築を期待したいところだが、そこまで頭が回らないかもしれない。高校以下の学校についても、標準的な授業配信のシステムを整備して、全国の力量ある教員が作成する授業コンテンツを学年・科目ごとに順次収録して提供すれば、学校が休業することによる学習の遅れへの不安を払しょくできる。

第2に、学校の概念の見直しである。簡単にまとめれば、すべての児童生徒に一律の機会を提供するというのではなく、学習者側の視点で自ら選択するサービスの提供を行うという方向への転換である。例えば、在宅学習の環境がない者には、ICT利用のために積極的に登校を促すのも一案だろう。また、家庭の事情で昼食が用意できない小学生には、登校させて学校給食を提供すればよい。その前後の時間で、学習指導もできるだろう。さらに、学童保育に頼らざるを得ない家庭の子供は、勉強も見てやりながら、可能な限り学校で預かる方が安全安心である。すなわち学校で対応できるメニューを示して、学校での感染リスクも考慮してもらいつつ、保護者の希望によってメニューから選択することを可とするという考え方に変更するのである。マスコミを通じて流通している感染者情報は非常に限られているので、地方自治体が保健所を通じて地域のリスクを把握した上で、学校という組織の事業継続について、オール・オア・ナッシングではなく、柔軟にメニュー方式で運用できるようにする方が、コロナ禍への長期的な対応という意味で現実的である。近代化の過程で一律主義に凝り固まった学校観が、この際転換するのは、社会の進歩にとって望ましい。

第3に、学校機能の見直しである。学校は設置基準等によって、教員配置や施設設備について細かく規定されている。学校という施設に学習者を収容して教員から一斉に授業を受けるということが基準等の前提とされている。こうした教育のやり方が相対化されれば、設置基準等による縛りも相対化しうることになる。世界ではICTの活用により教育手法が既に革新されつつあり、我が国の設置基準等の縛りは障害になっている。コロナ禍への対応として、地域の実情に応じて、低学年だけは受け入れるとか、選択的に短縮授業にするとか、在宅学習の成果を個別指導するとか、学校機能の使い方には多様性があって良いだろう。また、e-learningを導入することで、学校機能の見直しが具体的に進むなら、今回のコロナ禍は、災い転じて福となるだろう。それに伴って、教員の役割についても、学習者への支援を重視するという方向で見直すことになるだろう。

以上のような観点から、コロナ禍という危機への対応については、学校というシステムを、根本的に変革する好機とすべく構想することが望ましい。それを政府に主導してほしい気持ちはあるが、先進的な私立学校や教育委員会が独自の工夫で先導役を担うというシナリオが現実的かもしれない。ただし、学校教育活動で1人も感染させてはならないというような非現実的な条件設定をしたのでは、社会システムとしての学校は必然的に機能停止に陥ることになる。文化・スポーツ等を観る機会、種々の社交の場への参加が、「自粛」という言葉で次々に制約されている。人々がストレスを溜めながら、出口の見えない日々を過ごすのは、誠に残念なことである。その結果としての経済的利益の喪失も、無視できない規模になっている。冷静に感染症のリスク管理をしながら、学校という社会システムが、変化する国民のニーズを踏まえて生まれ変わることを強く期待したい。

 

 

« 危機管理ができない国はオリンピック・パラリンピックを開催できるのか? | トップページ | なぜリスクの伝達にデータもサイエンスもないのか? »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 危機管理ができない国はオリンピック・パラリンピックを開催できるのか? | トップページ | なぜリスクの伝達にデータもサイエンスもないのか? »

最近のトラックバック

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ