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2020年4月 9日 (木)

どれだけの大学がコロナ禍以後への準備ができているのか?

7都府県に感染症による緊急事態宣言が出たが、大学教育も歴史的転換点に差し掛かっている。こうした認識を持てない大学は、生き残れないだろう。ICTの活用については、世界は先に離陸しており、有力大学間の競争が本格化している。なにしろ、東京のように外出自粛ではなく、ニューヨークやパリ等では、自宅に閉じ込められているのだから、大学教育はオンラインで受けるしかない。いささか出遅れているにも拘らず、コロナ禍による授業開始の遅れは、一時的な措置だと高をくくっている大学があることには、驚きを禁じ得ない。少なくとも前期の授業を全面的にオンラインに切り替えると公表している大学は、まだ少ない。キャンパスでの授業を行っていない現時点で、48にも上る大学で感染者が確認されている。授業が始まれば、感染爆発は火を見るよりも明らかである。焼け石に水としか思えない感染予防措置で、56日の緊急事態宣言の対象期間終了後に備えようとしている大学には気の毒だが、無駄な努力だと思う。

どうしてもリアルな授業の実施にこだわるのには、彼らの利益に関わる理由がありそうである。第1に、大学という組織・施設の意味が相対化され、設置基準により保証された既得権が失われかねないことである。第2に、大学教員という職業に変革がもたらされることから、教員の既得権が危うくなるからである。第3に、授業自体がデジタルコンテンツ化されれば、教員の数も淘汰される可能性がある。経営側からは、特に非常勤教員の雇用を減らすことができるという見方がされている。

確かに、オンライン教育は大学経営や教員の地位に影響を及ぼす可能性も無視できない。しかし、大学という比較的浮沈の少ない業界に大きな変革の波となって押し寄せる、下手をすると長い歴史を持つ大学さえも、丸ごと飲み込んでしまうほどの歴史的転換点となる可能性がある。そちらの方が、大学人にとって、より大きなリスクであり、またチャンスと捉えられるだろう。にもかかわらず、潜在的恐怖ばかりを感じているために、コロナ禍を短期的に乗り切る方策とだけ考えて、小さなパッケージで「オンライン授業」を実施しようとしている大学もあるようである。「オンライン授業」の標準があるわけではないが、単に、Web経由で教材を配布して、自学自習によりレポートを提出して終わりということでは、郵送で問題や添削答案が届いた40年前のZ会の受験指導の方が、中身はよほど効果的だったと思う。要は、その名に値しない「オンライン授業」しかできない大学は、自らの価値であるべき教育=授業を放棄しているだけなのである。この事態の中で、学生に大学らしい授業をいかに届けるか、誠心誠意取り組まないような大学には、金輪際、進学しない方が良い。「オンライン授業」を大学への試練=試験だと思わないなら、すでに競争に敗れている=死んでいる大学だということである。

「オンライン授業」として、遠隔会議システムであるZoomを利用したライブ型(録画機能の利用も可能)、収録した授業を配信するオンデマンド型は、学習効果をチェックする仕掛けを組み込むことで、教育質保証が担保されうるだろう。また、パワーポイントに音声を付したものも授業の代替手段としては、一応、合格点となりうるものである。ただし、学生による作業の時間、理解度の確認テストを組み込むなど、教員から一方的に講義する旧来型のスタイルではなく、知識が定着する授業への工夫が不可欠である。

手法の選択と並んで気になる点は、学納金を受け取っている大学が組織的に取り組んでいるというよりも、大学が雇用している個々の教員による対応に委ねている様子が垣間見える点である。Zoomを利用してライブで授業を行うのは教員に違いないが、授業の構成をオンライン授業に適した形態に変革するためのノウハウが学部で共有されているとは限らない。誇り高い大学教授に対して自動車教習所のような指導は行えないだろうが、これまで行っている授業を、そのまま行うのでは教育効果は、リアル授業に比べても相当下がってしまうに違いない。また、危機に際して欲張りすぎるのは難しいとはいえ、日本の学生が週間に履修する科目数が多すぎるという問題に鑑みれば、授業の形態をアメリカの大学並みに予習重視型に改めて、まずは履修を週間8科目以下に抑えること、そのために全授業科目を大幅に削減することに着手することが望まれる。

「オンライン授業」には、大きな副産物がある。第1に、物理的な距離を超えて履修が可能になることである。海外で合宿している学生アスリートにリアルな授業に近い教育を受ける機会になるばかりか、一般学生にとってもキャンパスや学部を超えての履修が自由になる。さらに、大学間の連携措置で、他大学の授業が履修可能にもなる。有力な授業コンテンツを有する大学は、経営的な武器を手にすることにもなるのである。第2に、教員の授業改善の契機となりうる。いわばFD研修の実践版である。結局、魅力のある授業を行う力がある教員が、富と名声を手にすることになるだろう。そういう教員をそろえる大学が競争に生き残るに違いない。第3に、大学施設等の「装置」に該当する部分の価値が相対化するということである。私立大学は、学生募集のために、キャンパスの施設設備に投資をしてきたが、快適なキャンパスよりも充実したICT環境と授業が面白くてためになる看板教員に投資した方が優位に立つことになるだろう。

文科省も急速にオンライン教育へ舵を切っている。コロナ禍が一段落しようとも、2020年は、大学にとって歴史的転換点である。変革に尻込みするなら、淘汰は避けられない。大学の経営力、特に経営層の力量が問われている。コロナ禍は健康面でも経済面でも苦しいことばかりだが、歴史的には、大学人に新たな挑戦への舞台を開けてくれたと前向きにとらえていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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