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2020年6月

2020年6月18日 (木)

21世紀において学校教育で国民を教化できるのか?

本田由紀「教育は何を評価してきたのか」(岩波新書)を読んで、内容に共感した点も多数だが、ここでは、私なりの別の見方について紹介しておきたい。簡潔にまとめれば、教育基本法改正後の保守回帰の動向は、成果という面では空振りに終わる運命にあり、国家目標が不明確な我が国では国民の教化は実現しないということである。以下、ポイントとなる点について記述していく。

第1に、本田氏が「ハイパーメリトクラシー」への転換と表現している[生きる力](確かな学力、豊かな人間性、健康・体力)という理念の導入については、当初から、知・徳・体の調和を言い換えたものに過ぎず、特に新しい概念とは受け取れなかった。しかし、学校教育の役割として、定義・測定不能の人間性の涵養を学力と並べたために、現場には、長らく混乱をもたらしたと考えている。当時、「ゆとり教育」から「確かな学力」への方針転換が進められたことも、現場での[生きる力]への取り組みを一層難しくしたものと思われる。そもそも、[生きる力]自体が、十人十色の内容であるとともに、本来、学校で身につくはずのないものであった。生徒・保護者にとって、特別に信頼関係がある教員以外からの指導は、単なる大きなお世話に過ぎない。どうとでもとれる術語を提示して、中身があるようなふりをするというのは、教育行政の常であるが、[生きる力]は、その典型であった。実際には、「ハイパーメリトクラシー」は、どこにも存在しようがなかったのである。しかし、この用語に囚われて、学校教育は、国家にとって都合の良い「道徳的な」人間の育成に取り組まざるを得なくなっていく。その最初のつまずきが[生きる力]であったとも言える。初めて目にした時に、胡散臭い言葉だと感じたが、文科省にとっては自ら掘った穴に深くはまっていくことになる。そのことは、自業自得である。

第2に、「資質・態度」の「水平的画一化」という用語は、「能力」の「垂直的序列化」と対をなしているが、結局、画一化ではあっても、何ら水平的ではない。やはり、江戸時代以来の分相応という序列を前提にした教えと捉えるべきであろう。ただ、戦前は、軍隊という特殊組織において徹底的に教化がなされたので、21世紀において、学校教育で教化を担うといっても、所詮絵空事にしかならない。また、育成すべき能力・資質として中教審答申で1996年に列挙されたポイントを見ても、軸となる道徳哲学はなく、「日本教」特有の中空構造になっており、これといった方向性がない。まさに優等生的で、普通の大人なら、これらをすべて満たした完全な人間などいるはずがないと感じるだろう。「水平的画一化」を突き詰めれば、2.26事件を引き起こした青年将校たちの革命思想に繋がるのではないか?「水平的画一化」が実質化するのは、巨大災害あるいは戦争に直面した時である。それ以外の平時には、精神的または物質的に恵まれない、社会に強い不満を持つ人間の悲しい幻想にすぎない。あくまで、「顕教」として、国家に貢献・奉仕することが個人の幸福(本懐)だという教義を一般国民に対して刷り込もうとしたものだろう。ただし、国家と個人の利益はしばしば一致しない。ある程度、知的な能力のある人々には、国家有為の人材を目指すことを条件に、個性の伸長、リベラルな価値観、自由の尊重を、個人の成長の手段として保証することになる。そのような状況が半世紀以上も続いており、教育は本来的に個人の自己実現の手段であり、純粋に個人に帰属する利益であるという「密教」の真理は広く国民に共有されている。これは、国家に教育目的を集約することが、論理的に不可能であることを物語っている。本田氏が言うように、「水平的画一化」の推進が青少年の息苦しさ、閉塞感の主因かどうかはわからないが、国際比較に見る日本の18歳の異常なまでの、未来への悲観、社会的な無力感については、分相応な幸福で満足したいという現実的な本音を持ちつつ、限界突破で夢を追えという漫画アニメ等の全能感に満ちたメッセージに共感する自我が抑圧された状態を意識するゆえの苦悩ではなかろうか?一人っ子が多いので、親からの支援も手厚いため、肥大化した自我に、現実の自分が押しつぶされてしまうケースもあるだろう。努力すれば、皆がイチローになれるわけではない。日本の18歳は、国際比較の上では、恵まれた環境を享受しているはずだが、より高い自己実現を自分に期待すれば、実現できない自分を不幸だと感じることだろう。そういう青年には、頑張りすぎて自分を見失うことを避ける知恵を授けた方がよい。

第3に、2000年代の教育基本法改正等の保守回帰は、学校教育で国民を教化できるという前提に立っている。学校教員が子供たちを道徳的に指導できる、国家が道徳哲学の基本を提示しうるという想念に基づいている。敷かれたレールを進むように、特別教科として、小中では道徳、高校では公共という科目が設けられたが、保護者からの校長・教員への信頼感は決して高いとは言えない。また、日本国憲法下で、教育勅語のような経典が作られることも考えにくい。近代は遠くなりにけりであって、古来、国家というものにつきものの、巨大プロジェクトや戦争といった目標も持たない現在の日本では、国家の道徳哲学は生まれようがない。国民を動員する目標がないのだから、国家がもはや意味のある国民教化の軸を持っていないのである。この際、2003年から2006年の間に、与党の教育基本法改正に関する検討に従事した国会議員の方々を対象に、オーラルヒストリーを残してもらうよう、働きかけたらどうだろうか?本田氏も、この間の経緯がまったく非公開で空白になっているとしている。我が国の教育史にとって、極めて重要な法改正であるだけに、この間の実質的な議論の推移をアーカイブ化して後世に残すべきであろう。政治学者または優れたジャーナリストの出番だろうが、私としては、主導した政治家たちに、法改正によって、保守派の考える理想の教育は実現したと思っているのかも、ぜひ語ってもらいたい。

最後に、本田氏のいう出口(変革)の可能性について、簡単に述べておきたい。私は、本田氏よりも楽観的で、2000年代の保守回帰は、成果らしい成果に至らず、最終的には、自由を尊重したリベラルな価値観を原点に、外国人移民を抱えていく国家として、現在の与党を含めて、軌道修正を行うことになるものと考える。国家が道徳哲学を持ちえない以上、学校教育による教化は諦めるしかない。心の問題は、基本的に宗教の役割である。国家は無色透明にしておくほかない。戦争も巨大プロジェクトも持たなければ、国家には、国民の世話役以上の役割はない。21世紀においては、国民教化の必要もない。例外があるとすれば、コロナ禍への自衛を怠らぬことや特殊詐欺に引っかからぬように啓発することくらいだろう。コロナ禍対策の自粛期間に、吉本興業所属の「霜降り明星」の漫才で、小学校の1限から6限まで全部「道徳」なら、学校ではなく刑務所だろうという突っ込みを聴いたが、笑いの中に真実が込められた優れたフレーズだった。国家が学校教育で教化するという幻想は、既に笑い飛ばされている。

 

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